東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

神経症13

 原始的な感情は、深い井戸のようなものであり、我々はそこから感情を汲み出している。神経症は、いわばその井戸の蓋の役目をしている。それはほとんどあらゆる感情を抑圧する働きをする。それに、苦痛というのは言うまでもなく喜びまでも抑圧する。それだからこそ、ブレスセラピーによって原始の苦痛を感じ、自分自身を開放したクライエントは一様に、「私はまた感じることができるようになった」ということができるのだ。クライエントらは子どものとき以来はじめて本当に感じ取れる喜びを口にする。

 神経症の人間の内部に苦痛の深いスペースがあるとするこの考え方は、単なるたとえではない。表現の方法こそ異なれクライエントが口にしていることは、自分の内部に痛みのスペースを持ち歩いているということだ。たとえば、父親にぶたれるたびに子どもは、「お父さん、お願いだから優しくしてちょうだい。お願いだよ、こんなに恐い思いをさせないでよ」という気持を持つ。しかし子どもはいろいろな理由から、そんなことは言葉に表しはしない。ふつうそうした子どもは酷い闘いの状態にあるので、自分の感情に気づかない。かりに気づいたとしても、そんなことを言ったりしたら、「恐がらせないで、お父さん」などと言おうものなら、父親にあらたに懲らしめられかねない。そこで子どもは無意識のうちに、探りを入れ、すぐに謝り、でしゃばらず、礼儀正しくきちんと振る舞うことによって、口にできないことを表現しようとしている。

 このように原始的な苦痛は一つずつ蓄積され、吐け口を求めて張りつめている緊張のあらゆる層に入り込んでいく。それはその寄ってくる原因と結合したときにのみ、解消されることになる。それぞれの出来事が追体験されるとか、結合される必要はないが、多くの経験の下に横たわっている共通の感情は感じとられなくてはならない。だから父親にぶたれた子供は、漠然とした感情が自分の内部にある痛みのスペースの中に蓄えられている父親と結びつけられると、父親に恐い思いをさせられた記憶が次々によみがえってくるのだ。

 このことはとりもなおさず、主要な原始感覚的な情景の存在を証明している。それは中心的な感情につながらずにはおかない数多くの経験を代表するものである。しかし恐い思いの感覚は、脅威と思われる出来事を解決するために必要な感情の動きでもある。それは闘うか、逃げるか、あるいは変容によって成長を遂げるかの本質である。したがって恐れを深く感じていけば、それだけ知性的でバランスのとれた対応ができるようになって自らを癒すものとなりうる。それには深くて途切れることなく続ける意識的な呼吸を通してその瞬間を感じることができる。原始感覚的とも言えるこの手法は自分の内部にある苦痛のスペースを手順よく踏んで、空にすることができる、そしてスペースが空になったとき、その人間は本物に、あるいはよくなったと、見做すことができるのである。
明日につづく


2014年4月27(日)
東京操体フォーラムが開催決定!
会場は東京千駄ヶ谷津田ホールです。

「入眠儀式 快眠・快醒のコツのコツ」
是非お越し下さい。

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