東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

美は犠牲的?・・・2

おはようございます。

「美」を漢字の成り立ちから考えると、羊を神様への生贄として献上した古事から始まるようです。昨日紹介したwikipediaの説明では、「美」とは大いなる犠牲であり、「自己犠牲」であるといったことが書かれていました。
 昨日は戦争の話となってしまいましたが、この「生贄」の文化というのも恐ろしいと感じます。

 そもそも、神様は生贄を求めるのだろうか。これは、当時の人達の恐怖心から起こった妄想だと思う。羊だけでなく、水害の多いところでは、人柱というものもあったと聞く。同情する。しかし、神様は生贄など求めないと思う。これは「報い」の価値観だけからなる妄想だ。
「報い」つまり相対的価値観から、人間がこれだけの犠牲を強いているのだから、それだけの見返りをしてほしいと相手(神様)に要求しても、相手がそれを求めていなければ不成立となってしまう。
 当然、生贄の効果はない。その効果のなさを犠牲が足りないからと考え、犠牲をもっと増やす。羊の大きさ、数、果ては人間まで。妄想はどんどんエスカレートする。恐ろしいことだと思う。
 

 一方、同じように神様になにか献上するのでも、「祭り」はどうだろうか。「生贄」も「祭り」も宗教的儀式に変わりはないが、随分と印象が変わる。
 祭りの種類にも色々あるだろうが、こちらは総じて、誰かが犠牲になったり、その分だけ見返りを求める、というような発想は感じられない。
 神様に感謝して祝う。収穫が少なくとも感謝して祝う、多ければ悦ばしい気持ちが上乗せされて感謝して祝う、また少なくなってもそれはそれで感謝して祝う。良いからはじまり、良い、良い、良い。比較のない絶対的価値観。
 神様が全愛であり、公平であると本当に信じられるならば、自分達の都合によって、その敬う気持ちが良くなったり、悪くなったりするものではない、もちろん恐怖の対象でもない。自分達の状況が今、悪くても、良くなっているところもある。良くなったところが、自分達にもまた返ってくる。みんなつながっているのだから。更に良くなる。
 また、比較がなければ僻みや妬みもなくなってくる。良いものは良いと素直に認め、尊ぶ心。
 絶対的価値観、それこそが「救い」であり、潜在的には誰にでも宿っている普遍の価値観であり、良心であると思う。

 「救い」と「報い」どちらの方が良いのか自分自身に問いかけてみる。考えるのではなく、からだにききわける、自身に宿る御魂にききわける。「救い」の方が良いに決まっている。
 しかし「報い」が悪いということではない。「報い」というのは現世における歩み方の努力に対する評価でもある。その歩み方の努力の源をどこにとるか、ということが重要になってくる。心の持ちようによって、万象が発展変化するという事なのだから。
 心の持ち方に「救い」という絶対的価値観がなく、相対的価値観しかなければ、比較対象による限りない欲望や、そこから生じる劣等感、不安感から逃れようがなくなってしまう。 そして、これは個人だけではなく、まわりも巻き込む。生贄文化のような事も起こってしまうだろう。
 また、心的ストレスを吟味していけば、これが係わっていないものなどない。だから努力の源には「救い」という絶対的価値観が求められる。

 「自己犠牲」ということに関してもそうだ。自己犠牲には自分さえ我慢すれば良い」という側面もある。そして、これが過ぎると自己を潰してしまうと考えられている。そのようなものに美しさはないと思う。
 また、自己犠牲はニヒリズムにもつうじるが、ニヒリズムは虚無にもつうじる。虚無に「救い」はないのだ。

 三浦寛先生は、「快からのメッセージ」の著書のなかでこのようなことを書いている。
「自己犠牲をよしとしてはならない。相手につくす場合に、自己犠牲をよしとして甘んじるのではなく、自分もそうすることが喜びであり、生きがいで、うれしいことでなければならない。この逆の場合は、相手に尽くしているうちに自分自身が苦しく耐えがたくなってきます。」

 自分の現世における努力の歩みの中に、心の本源の泉から「救い」の価値観を、少しでも湧き出させていく様に意識する。大切な事だと思います。


2014年4月27(日)
東京操体フォーラムが開催されます!
会場は東京千駄ヶ谷津田ホールです。
テーマは「入眠儀式 快眠・快醒のコツのコツ」
是非お越し下さい。