人体の像を、からだの構造(つくり)と、その動きから、
直接力学的な像の歪みとして、見いだす。
これは「病が内に発して外表に応じてくる」という見方ではなく、
「外から見て、これは病気になるぞ」と気づく点を見つける理由が
ここになければならない。
からだは、歪みを写す像である。それを運動系(ボディ)の歪みという。
健康傾斜の歪体化とは、病が内に発して外表に応じてくるのではなく、
外からみて、これはおかしいぞ、放っておくと、病気になるぞ、という
プロセスである。
内からこわれるのではなく、外からくずれていく。
どのような症状疾患を診てもボディーに歪みがないことはないのである。
その歪みはどこからくるのか。
それは、からだが病気をつくりだすのではなく、
思考が病気を生みだしているのだ。
その思考は、生き方にある。生き方に間違いがある。
操者の役割は、治すことに没頭するのではなく、
本人に「自己責任をまっとうさせること」にある。
操者は腕自慢であってはならない
(治すことに夢中になってはならない)。
臨生とは加療であり、自己責任をまっとうさせる指導の場である。
一発で治そうとすると、ケガをする。
それは、手柄を立てようとする欲である。
臨生は腕自慢を競う場ではないのだ。
療術、治療はどうしても診る側の世界である。
自分が主語ー主体である。
しかし操体はからだ、身心(みこころ)をとほしての
生命(いのち)が主語、主体である。