東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

「アイデアはどのようにいかせるのか」

操体を学び始めて六年の月日が経過しようとしている。誰もが自分がやっている事を3〜4年続けていくとやっていることの本質がわずかでも見えてくるものだと思う。それはそれなりに基礎が身についてきたことを意味するのだと思うのだが、ここが一流になるか、二流になるかの分岐点になるのだと最近の私は強く感じている。

現在の私は畠山先生がブログで書かれていたように「守・破・離」の「守」の部分に位置しているわけだが、なかなか「破」が見えてこない。六年やそこらでは当たり前のことなのかもしれないが、学んでいることが「本物」であればあるほど、「守」から「破」への道のりは長く険しいのだと感じる。やはり自分が学んでいることの真理は安くは手に入らないものなのだと改めて実感する。

私は今でも師である三浦先生のやっていることをひたすら見て、真似て練習する日々であるが、次から次へと溢れ出てくるアイデアを一早く形にしたいという衝動に駆られる時がある。しかし、自分が「これだ!」というものに対し型付け、提案する勇気がない。それは私自身がまだ自分に対し自信が無く、師が見ている先のものを掴めていないからだと思う。
なぜ自信が持てないのかと考えていたのだが、自分が持っているアイデアを形にした時の結果が見えてこないからだと思う。別の言い方をすると自分がイメージしたストーリーが最後まで描ききれないのである。恐らく師はそんな私の迷いを察知してくれたのか、最近のレッスンの場では「好きなようにやってみろ」「だが好き勝手にやるなよ」等と声を掛けて下さる。こういった声を掛けて頂けるのは弟子としては本当に有難いことであり、私もそれに応えようと自分の考えていることを出来るだけ「道理」から外れないように形にし、師の想いに応えられるように努めている。

そういった経験から学んでいることはやはりストーリーの結末が描けないうちに出てくるアイデアは本物ではないということである。それは全てのことに同じことが言えて、最初だけ描けて途中からは「どうにかなるだろう」というアドリブでどうにかしてしまうのが一番危険であり、自分が取り組む前の段階から全てのストーリーを描ける能力が備わるまでは自分の持ったアイデアは懐に温めておくべきである。私が思うに自分で身に付いたと思ったりしているうちは、それはまだ本物ではない。自分が身に付けた技術や術が無意識の習慣として普段の行動として出せるようになった時に初めて身に付いたということになるだろう。つまりそれは=姿勢ということになる。師や先生は弟子や生徒の姿勢を見て「出来る、出来ない」を判断しているのだと思う。

もしこれを読んでいる皆さんの中にも私と同じようなことを感じた人がいたら今一度自分に問いただしてみてほしい。現在の自分の姿勢はどうなっているのか、生き方はどう変化してきたのかを。