東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

神経症15

 前回からの続き「神経症」について、もう少し続けてみる

 神経症にかかっている人間がはじめて精神分裂を起こすとき、視覚、聴覚、触覚でとらえた情報を一時的に蓄える働きをしている脳の記憶組織である海馬からその周辺の神経回路、さらに大脳皮質の連合野にも分裂が起こってくる。そんな記憶の内には、苦痛な感情とともにしまい込まれた現実の記憶の他に非現実的な体系と結びついている記憶も存在している。この非現実的な体系に結びつく機能というのは、苦痛につながれている危険性のある記憶について、それをこし分けて、ふるいにかけ、99%の情報は阻止する役目を担っている。

 だから子どもたちが新たに原始的な苦痛の情景に直面するたびに、そんな経験をより多く消し去ることを強いられることになる。その結果、それぞれの原始的な苦痛のまわりには、完全な意識からふるい落された連想がまとわりついている。このように精神的な外傷が強ければ強いほど、脳の記憶のいくつかの面に影響を与える度合いも当然強くなってくる。

 記憶というのは苦痛な感情に密接につながっており、人間の本能でもある健忘的な記憶は、意識的に合成し受け入れるにはあまりにも苦痛が伴うようである。したがって、神経症にかかっている人間の場合、いくつかの重要な領域の記憶が不完全であることもわかっている。

 原始的な情景にはじめて直面したときに、非現実の記憶の体系が芽生えるとする考え方は、いくつかのことを意味している。たとえば神経症の人間は、日時、場所、歴史的な事実、さらには自分の過去についてすら、恐るべき記憶をもっているが、それは「えっへん! どうだい、俺はすごく頭がよく、よく覚えているだろう」と言っている非現実の外面を支える働きをしているにすぎない。それは神経症患者の記憶の深い部分においては、全面的に阻止されているに違いない。非現実の自己の記憶は選択的で、緊張を和らげ、「自己」を助長するために心の奥深くにある闇の部分に絡みついているのだ。要するに、神経症の人間のすばらしい記憶なるものは、本質の記憶をはねつけるための防御にすぎないということが言える。

 そして緊張を伴わない神経症など絶対にあり得ない。ここでいう緊張とは、不自然な緊張のことで、これは正常な心理状態の人には無縁なものだ。いうまでもなく正常な緊張は、我々が生きていくうえで必要なものであるが、不自然な緊張とは慢性的なものであり、否定された感情と要求、あるいは未解決のそれらがおよぼす圧力なのである。神経症患者の臨床でいう緊張とは、いつの場合にも神経症的な緊張を意味しており、緊張の程度が弱ければ、その分だけ気分がよいのがふつうで、緊張が高いほど、気分は悪くなる。要するに神経症患者が見せる行動は、少しでも気分をよくしたいと自ら望んで行なっているものである。

 緊張が生ずる原因、それにその効用とはいったい何なのか? 神経症の一部を形成している緊張は、必要を満たしたり、破滅的な感情から人間を守ったりする方向に肉体を動員する、いわば生存のためのメカニズムであると推論することができる。いずれの場合にも、緊張はその人間の継続性と統合性を保ち続けようとする。たとえば、お腹がすくと、緊張が生じ、食べ物を探し、その必要を満たす方向に我々を向かわせようとする。

 小さな子どもの場合には、抱いてもらえず、元気づけてもらえないと、そこに緊張が生じ、必要に駆られて行動を起こす。また、いつも必要を充たされることがないと、満足感にありつけないことが耐え難い苦痛となって、その痛みを抑圧するために要求が抑圧され、それが緊張として残ってしまう。

 このように充たされない思いは、意識と統合され、解消されるまで、緊張としていつまでも残ることになる。要するに、小さな子どものときに経験した運動や感情面での重大な抑圧は、それが感じとられ、解消されるまで、要求として残るのである。

 こうして心の分離は、恐れによって保たれ、苦痛の原因となる要求や感情が、意識に近づくことで信号を発するようになる。そんな恐れは防衛機制に行動をとらせ、要求をしりぞけたままにしておくためにありとあらゆる手段を講じてしまう。その恐れは生きていくためのメカニズムの一部であり、自動的に反応する。ちょうど我々が注射を受けるときに緊張するのと同じように、それは打撃に対して守りかためる体制をとる。その体系がうまく苦痛を払いのけることができないと、意識的な恐れ、すなわち、不安が生ずることになる。恐れもまた、通常の意識に感じとられることがない。それは蓄積された緊張の一部となってしまう。

 不安というのは、感じととることが出来るが、きちんと焦点が定まっていない恐れのことであると、定義することができる。不安は防衛機制が弱まり、恐れの感情が意識に近づくときに呼び覚まされ、その感情が結合していないために、不安の焦点は定まっていない場合が多い。不安の根源は、愛の欠如、すなわち誰からも愛されていないという恐れにこそある。大抵の人間は、自分は愛されていないのだという感情を脇に押しやるために「人格」というものをつくりあげ、それで不安そのものをふせぎ止めているのである。

明日につづく