東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

おなかのきもち・・・5。

おはようございます。

今朝は快便でしたか。
私は快便でした。

 快便は気持ち良いですよね。ストーン、ストーン、コンモリ。そしてニンマリ。快便して怒り出す人はいないと思う。「ほっ」としてニンマリ。そして感謝の念も湧いてくる。
 気持ちがいいから、感謝の念が湧いてくる。誰に対してとかそういう理屈ではなく、とにかく安心して感謝したくなる。それが気持ちがいいということだと思う。
 「ほっ」と安心するには、他力を認め、受け入れること。自分ひとりで生きているわけではない。自分の存在を存在たらしめている存在や自在があるということ。そういう他力があって、生かされて生きている。自分だけではどうにもならない。

 道元禅師は「鳥の命は鳥にあらづ空にあり、魚の命は魚にあらづ水にあり」と言ったという。操体の創始者橋本敬三先生は「生命体が自然環境に適応するということ、これは生命の至上命令であるから、この絶対原理は自然の救いになっているのである」と著書の中で書いている。

 他力の中に自分自身が在る。いや、他力の後押しによって自分自身が在る。だから、たかがウンコを出したぐらいで、と思われるかもしれないが、気持ちよさを味わえ、とにかく感謝したくなるのだと思う。これも腸内細菌の働きは大きいと思うが、それだけに拘って相対的に感謝しているわけではない。腸内細菌のバランスを良くする腸内環境、からだの働き。からだと環境との調和。生かしてくれている全てに感謝しているのだと感じる。

 しかし、他力にばかり頼っていたのでは生きていけない。生かされて生きる。一方が「有難う御座います」他方が「どういたしまして」の関係ではなく、尽十方に尽十方が「有難う御座います」の関係。間を取り持つのが自然法則。自然法則にあわせて生きられれば、間に合って生きられる、ということにつうじる。間に合っていれば良い。間に合っていれば良いという心の豊かさが大切。

 操体は、自力自療ということがよく言われる。しかし、それは物事の一面、片面だけでしかない。物事の本質というのは一にして二、二にして一。片面だけ理解しても、本質を捉えているとはいえない。
 自力自療は、他力によって生かされているという事に、気づくことによってより効力が発揮されてくる。動診、操法も「オレが、オレ我」と自分中心で行っても、あまり意味がない。それでは、ただの体操だ。
 自力自療を行うにあたって一番大切なのは「からだの感覚をききわける」ということなのだ。そして「ききわけた快に従う」。自分で治すから自力自療なのではない。自分を生かしてくれている、からだ、からだと共に在る細菌など、それと環境、それらが調和を密にしながら、自然良能作用を発揮するから、不快症状の解消、改善に向かうのだ。
 自力自療の対象は自分ではなく、自身と自身を取り巻くすべてなのだ。自分が治しているわけではない。自分は自然法則を意識して動き、その感覚をききわけ、ききわけた快適感覚に従い、お任せする。我を張って欲張らない。欲張ったり、頑張って動くと感覚は消滅してしまう。間に合っていれば良い、という心の豊かさが大切。