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東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

「操体からのメッセージ」

三浦 寛幸(みうら ひろゆき)

本当の当たり前(アタリマエ)とは一体何なのだろうか?

よくよく考えてみて、自分が「当たり前」としていたことは「アタリマエ」ではないように思う。

電車がある、それが時間通りに来る。家の近くにコンビ二がある。生活に必要なものが当然のように店頭には揃っている。

このような暮らしの中の「当たり前」の水準が高ければ高いほど、なかった時の不便さ、ストレスは大きくなる。

自分が置かれている環境によって暮らしの価値観は様々だと思うが、都会の真ん中で暮らしていると本来の自分の感覚を鈍らせてしまっているように感じる。

こういった暮らしの中の「当たり前」は人間界の「当たり前」であって、地球やイノチのアタリマエではない。
生物や自然界、地球という単位を一つの家で見ていくと、その同居人からすれば私達が普段行っていることは異常に見えるだろう。

例えば同居人である動物達ははその日の食料を何時間、何十時間費やして取りにいく。次のイノチを作るのに性行為をする。それも一人のオスが何人ものメスを相手に行うケースもある。中には自分のイノチを次のイノチの肥やしにする。
これを人間の社会で行うのは人間の価値観からすればこういったことが異常に見えてしまう。

しかし地球で生きている同居人はアタリマエのようにこういったことを行っている。
地球からみれば「同じ価値のイノチ」が行っていることが正常と異常に分かれてしまうことが不思議でならない。

もちろん人間には人間の命の営みがあるが、人間は自分達が作ったルールに縛られすぎているように思う。

その「縛り」が人間の暮らしにおける価値観をおかしくしてしまっているのではないだろうか?

人の思考が人間の「当たり前」を勝手に作り、それを共通意識で「法」としてきた。

もちろん、それが人間に必要なことであった為で、法がなければ人間の欲は暴走し、秩序はなくなり、地球はただの無法地帯となる。ただ、法の縛りは人間の思考を反発するように働かせようとしている。縛りがあればあるほど人の意識はその世界を縮小させていく。

だが、そのベクトルを地球、自然界に向ければ人間の「当たり前」は当たり前でなくなり、自然界と調和した「アタリマエ」が産まれてくるのではないだろうか?

つまり現在のように情報で溢れている今だからこそ発想の転換が必要なのだと言いたい。

それは生きるということ、また臨床でも同じことである。

今まで自分達が培ってきたことが「当たり前」でなくなる時代がきているように思う。

一週間、自分の一人事にお付き合い頂きありがとうございました。来週からは半蔵さんです。お愉しみに。