東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

中心理念へ。

おはようございます。

 

 昨日ブログは、なにやらカタカナの長たらしい名前がたくさん出て来て、読むのが面倒だったかもしれませんね。
 私も操体と出会い、橋本敬三先生の書物に触れるまで、古事記とかそういったものとは無縁でしたから、橋本先生の書物でたびたび出て来ても、初めのうちは名前はスルーしてしまったりとか、していました。
 しかし、名前の一字一字にも相応の意味はあるし、その内容には操体の学びにつうじるものが沢山あると感じています。

 

 橋本敬三先生は、著書の中で「神その像(かたち)の如くに人を創造りたまえり」と宣言するかの如く書いている。そして、「神の像なる人間がなぜ病気をしたり死んだりせねばならないのか。これは医学の範囲外ではあるが、重要な関係がある」と続けている。
 神人合一の生命観であり、哲学である。これこそが操体の原点であり、土台となるべき思想である。そして、真の健康体への問いかけ、歪体化現象への着目と自然法則の究明、更に原究という実践医学の基でもある。

 

 では神とは何ぞや。人間をはじめとして、この大自然をつくった神とは。万物の創造主たる神とは、どういうものか。
 自分自身に自問自答するのも良いと思う。いろいろな神が居ていいと思う。しかし、宗教的な神が必ずしも神ではないと思う。神は創造主ではあるけれど支配主ではないからだ。
 いろいろな神が居ていいと思うが、支配主のような神が色々居たら、対立を招き、地獄のようになってしまうと思う。おさまりがつかなくなるということ。これは、まだ尾を引く西洋の宗教的対立の歴史を見ても明らかだ。

 

 この世は地獄ではない。また地獄のようにさせない為にも、各人が想ういろいろな神にも、一番始めの原初の神の中心理念が貫通しているという事を認識し、自覚する必要がある。
 この世は本来、原初の理念である「愛と調和」によって成り立ち、快に向き偕に歩む快園なのだ。大自然のそれぞれにも、その理念は貫通しており、水や風や山の岩にも神は宿るし、様々な生物にも神は宿り、全体的な大自然として調和が保たれているのだ。そこに病や死の概念はない。

 

 しかし、人間だけは大脳の発達があまりにも急激だった為か、その理念は隠されてしまった。古事記でいう「御身をかくし給いき」であり、在ることはわかるのだが、お姿が見えないという状態になってしまった。
 神の姿が見えないということは目標や目的を見失う事でもあり、迷いが生じたということだ。そして、いかに大自然と調和して生かされて生きていくかが、わからなくなったということでもある。それによって病や死をつくってしまった。

 

 人間の大脳が発達し、文明が発達したのは確かであり、そのお陰で私たちは便利な暮らしが営めている。
 しかし、暮らしが便利になったからといって、心が満たされているとは限らない。物質的に豊かになった分、あっちこっちに振り回され、自分は何を求めているのだろうかと、自分自身がわからなくなってしまうという事もある。

 

 軸とか中心となるべきものがなければ、そうなっても仕方のないことだと思う。中心から離れるほど、迷いと妄想が生じ、神性が隠されてしまう。
 本来持っている自然への適応性も隠れてしまい、その生活も自然法則に反したものとなり、像は歪み、健康を阻害する因子を積み上げる事となってしまう。

 

  中心におさめる。みんな一人一人が個性真理体なのだから、思想、信条はそれぞれあって良い。
 しかし、大自然に生かされて生きているという自覚は持つべきだと思う。自我ばかりの自分勝手は許されない。

 

 自我ばかりを悪者にする訳ではないが、自我は迷いの元でもある。迷いを断ち切るには、自分自身の神性に問いかける必要がある。
 神性を宿し大自然とともにある、からだにききわける。そして原初の中心理念に向かって、柱を立て、おさめていく。