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東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

最終日。

おはようございます。

 今日は朝から、ウグイスの鳴き声が響いています。ウグイスというと早春の鳥として有名ですが、私の住む地域ではこの時期に鳴いていることが多いです。

 「ホ~~  ホケキョ」ホ~は吸気、ホケキョは呼気。このように鳴くのは、この時季特有のもので、秋になると「ケキョ ケキョ ケキョ」と鳴くのだそうだが、なにか「ホ~」で充満する色々なエネルギーをいっぱいに吸いこみ、生命力を表現しているように感じられる。この時季の姿と秋の姿では、随分と違うと思うのだが、なかなかその姿を目にすることはできない。

 「ホ~ ホケキョ」「ホ~ キケヨ」「法~ 聴けよ」すぐ近くで鳴いているのはわかるのだが、御身は隠し給いき。目で見ることばかりに捉われず、聴いた感覚、音がからだにヒビクことで感じるものが大切と諭されているような気がする。音は目には見えない。見えないゆえに、より真実を伝えているような気がする。

 

 今回のブログのテーマは、「おさめ」でした。そのヒビキは重奏にして濃厚、そして神聖的な感じすらする。

 漢字も、「収め」「納め」「治め」「修め」と、その場の状況に応じたものが色々とある。通常はこれらの語に「る」とか「た」をつけて、「収める」「納めた」といった使い方をするのが一般的であろう。

 「る」とか「た」と付け加えると、たちまち人間の行為を意味するものになってくるが、「る」や「た」をつけても、敬いや感謝、なにか目に見えないものに献上するような、そんな含みを帯びている。

 単に人間の行為を意味するものであれば、わざわざ「おさめ」という言葉を使わなくても、他にも言葉は色々ある。「収める」は「しまう」でもいいし、「納める」は「支払う」でも意味はとおる。しかし、それではとおらない、ということは誰でも知っている事だと思う。

 

 例えば、神社の神主さんに、玉串料を渡す時、「支払う」とは言えないだろう。納めるでなければ、社会的にとおらないし、なにより自分の気持ちとの大きな隔たりを感じる。

 まぁ、税金だったら支払うでもいい様な気もするが、支払うという意味を何かの対価に対してと考えれば、税金も納めるということになってくる。昨今の政治や政治家の事を思い浮かべれば、ちょっと癪にさわる感じもするが、公共の為と気持ちを切り替えれば、癪にさわっても、気分はおさまってくる。

 存在にこだわり相対的に考えると、どうしても見返りとか損得のつり合いとかが先行して対立が生じやすくなるが、より自在性の高いものを想えば、平静を取り戻してくる。誰かに水をぶっかけられれば、頭にもくるが雨だったらしょうがないではないか。雨も降らなければ逆に困る。

 

 こうして例え話を書き出していくと、「おさめ」とは相対的なやりとりを超えた言葉だと感じられてくる。現象だけを論じる言葉でもなく、絶対的な自在につうじる言葉でもあるという事。

 「治め」であれば、病気を「治す」という言葉が浮かぶが、実際は人間が人間を治しているわけではないですもんね。その人のからだが十分に治癒力を発揮してくれなければ、どうにもならない。本当は相対的なもので治っているわけではない。投薬でも、外科的処置でも手技療法でも、からだが応えてくれなければどうにもならない。からだが応えてくれるよう、その要求感覚に施術者も被験者も一緒になって耳を傾ける。からだの要求感覚は「気持ちよさ」なのだ。「気持ちよさ」をききわけ、とおす。ききわけた「気持ちよさ」を味わう間というのは、自在する中心理念「愛と調和」へとおる間なのだ。この太極とか祖神(親の親の神)とか呼ばれる中心理念へとおすことこそ「おさめ」だと思う。

 

今回はこれにて筆をおさめさせていただきます。 お付き合いありがとうございました。

来週は中谷さんの担当となります。 来週もどうぞ宜しくお願い致します。

 

友松 誠。