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東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

教育によって。

おはようございます。

  ルカやマタイやマルコ、キリストの弟子達の書いた福音書の中には、このようなくだりがあるようです。
 
 イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。
 「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこにはいることはできない」
 

 今回のブログのテーマである「歪み」のことを考えていて、このキリストの言葉が浮かんできた。

  バランスが崩れて生体が歪む。そのバランスとは? 生命エネルギーのインプットとアウトプットのバランス。
 色々あるが、絞っていけば「息」「食」「動」「想」につきる。この4つは自己最小限必須の責任生活である。
 責任を問うなら、法則がなければならない。その法則は誰がつくった?誰がつくったとかそういう次元ではなく、大いなる大自然に自在するものである。
 そして「息」「食」「動」「想」と「環境」とは、鎖の輪のように密接に係わり合いながら存在を成立させている。
 「息」「食」「動」「想」が自然法則に背反すれば、バランスは崩れて生体は歪む。また「環境」が苛烈であっても、「息」「食」「動」「想」のバランスは崩れざるをえなくなり、生体は歪んで対応するしかなくなる。

 この「環境」の苛烈さについてなのだが、人為による社会環境が熾烈で、自然環境が著しく汚染、破壊された公害みたいな問題は、直接的に生命の危機にも陥るケースもある為、環境との調和の重要性とか、自然環境の大切さというものが、目に見えるかたちで理解できる。
 しかし、自然環境を物理的に汚染、破壊していなくとも、人為・社会的環境が熾烈で自然環境の有り難さを隅に追いやってしまっているという問題もある。こちらは解りづらい。解りづらいが、これは乳飲み子から子供、大人へと成長する段階において、すごく大事な事だと思う。

 みんな誰でも、自然の一員として、この世に生まれてくる。そして呼吸をし、次第にハイハイから二本足で立って歩けるようになっていく。これは自然環境の空間のお陰である。そして、生きていくには食べ物を食さなければならない。これは親が面倒を見てやらなければならない。ここで人為的要素が加わる。「息」「食」「動」ここまでは本能で生きる他の動物と似ている。しかし、「想」は言葉を有して文化、文明を創造できる人間独特のものである。親は子に対して愛情を注ぎながら、言葉によって人間社会に適合できるように躾け、教育する。

 この過程に於いて、親や教育する側の人間は、自然環境の有り難さを語り継ぐ必要がある。息ができるのも、重力の作用を受けて地球に居られるのも、自然環境のお陰なのだから。これを当然の事なのだからと、隅に追いやらないことだ。自然を切り離した教育は、自然法則への背反が生じやすくなる。バランスを崩し、年端もいかないうちから、からだの歪みによる不調を抱えこむ、ということにもなりかねない。
 人為・社会的環境の中での常識とか規範を教える事も重要だと思うが、自然への畏敬と感謝を忘れずにバランスのとれた教育が望まれると思う。 

 私はキリスト教やキリストについてよく知らないが、冒頭の福音書に戻ると、イエスは人為・社会的環境の影響を受けず、自然環境に身を委ね、母親の愛情と自然の本能によって抱かれている乳飲み子を見て、「神の国はこのような者たちのものである」と言ったのではないかと思う。
 そして、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこにはいることはできない」という言葉は、人為・社会的な常識とか規範ばかりに捉われ、自然の有り難さや人間や自然をつくった創造主(神)を見失っていた弟子達(啓蒙、教育する側)に対する戒めのように感じる。