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東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

愛 3

 我々が何かを愛するときには、本来、それがどこにあるかに関して超人的な感覚をもつことになる。それは我々のもっている愛がそれを探知して、その愛が我々を導いて案内してくれるからだ。そんな感覚の記憶は新生児にまでさかのぼることで明らかにされる。

 蜜蜂は花がどこにあるのか、何十㎞も遠く離れたところから嗅ぐことができる。どうやってその道を見つけるかに関して、多くの実験と研究が蜜蜂を相手に為されてきた。何十㎞も離れたところに花が咲きだすと、蜜蜂たちが殺到してくる。蜜蜂の中にほとんど超感覚ともいえるものが存在しているのだ。この超感覚こそは愛以外の何ものでもない。

 そして我々人間の子どもが生まれたとき、子どもは常に愛という超感覚そのものの中にいる。子どもは生まれたときには、憎しみをまったく知らない、愛しか知らない。愛とは本来的なものであり、憎しみは、後になって習得するものだ。愛は本来的であり、怒りは後になって学ぶものだ。嫉妬も、所有欲も、敵がい心も、後になって学んでゆく。社会がこうしたことを親切に教えてくれるからである。どうやって嫉妬するか、どうやって憎しみでいっぱいになるか、どうやって怒りで、または暴力でいっぱいになるか。こうしたことはすべて懇切丁寧な社会によって教え込まれることになる。

 子どもは生まれたとき、ただ愛そのものだというのは、そうあって当然のことである。というのも、子どもは愛の他に何も知らないからだ。母親の子宮の中で、胎児はどんな敵とも出会うことがなかった。九か月の間、胎児は深い愛の中で生きてきた。母親の愛に取り囲まれ、その愛で育まれていた。そんな胎児は自分に敵対する者を誰も知らないで過ごしてきた。胎児はただ母親だけを知っている。胎児はその母親の愛をよく知っている、だから胎児が生まれるときの経験はすべて愛によるものだ。このようにして新生児は母親との深い愛の信頼とともに生まれてくるのである。

 そのような母親が妊娠したとき、どのように歩くか見たことがあるだろうか? 
いかにも注意深い。というのも、自分のからだの中に新しい生命が祀られているからだ。女性が妊娠したとき、その顔に現われる変貌を見たことはないだろうか? 
 彼女の顔は輝いている。希望に満ち、新しい生命と、新しい可能性とともに脈打っている。
とても幸福そうに見える。彼女は財宝を、大変な財宝を宿している。新たな生命が、彼女を通して創造されつつある。だから、彼女は気をつけて歩く、気をつけて動く。妊娠したことで、彼女の中には優美さが湧いている。彼女はもう一人ではない。彼女の肉体は愛の寺院になっている。