我々は「愛」という言葉で一体何を意味しているのだろうか? 我々のすべてが確実に意味していることの一つは、それには引力というたいへん大きなエネルギーがあるということである。誰かが恋に落ちるとき、それは、自分が何かをするというのではなく、愛の中に引き込まれてしまうということであり、それほどまでに強い磁力を持っている。自分の愛の対象に向かって引きつけられる、それも救いがたいほど引きつけられてしまう。自分の意志に反してまで引きつけられてしまう。それには引力という大きなエネルギーが、とてつもなく強い磁気フィールドがある。だからこそ、我々はそのことを「恋に落ちる」と呼び慣らしている。
誰も好き好んで恋の奈落に落ちたいとは思わない、だが、誰がそれを回避することができるだろう。そのとてつもなく大きなエネルギーが自分を呼ぶとき、突然にもう古い自分ではなくなる。自分よりはるかに大きい何かが引き寄せている、自分より偉大な何かが呼びかけている。そしてその挑戦の中に、我々はただ飛び込んでゆくことができるだけだ。
このように愛とはとても大きな、引きつけるエネルギーであるということが理解できると思う。そしていつであれ、我々が恋に落ちるときには、自分は突然もう普通ではなくなる、自分の意識の中で何かが奇跡的なまでに変化するということなのだろう。そのように愛は我々を変容させる。
暴力的な男がある女性と恋に落ちた! するとどうだろう、その同じ男がとても親切で優しくなってしまった。人殺しの凶悪犯ですら、恋に落ちると、実に慈悲深くなることができるという。そんなことを信じるなんてほとんど不可能なことだと思える。だがしかし、愛は奇跡を起こすことができるようだ。それは地金を黄金に変容させることができる。
あなたは、恋に落ちてしまった恋人たちの顔や眼を観察したことがあるだろうか? 彼、彼女らが同じ人だとはとても信じがたいことであろう。愛が恋人たちの魂を占めたとき、そのとき、彼、彼女らは変貌する、まったく違う次元の中に運び込まれてしまう。しかも突然にしてそれも恋人たちの努力はまったくなしに。このように愛が土台を高く変容させ、大地を大空に変容させることができるのである。
こうして愛を展開してみてわかることは、愛はエネルギーフィールドであり、変容力だと言えることだ。キリスト教でいう神の愛や仏教の慈愛のような、我々が宗教的であるかどうかには何の関係もなく、愛は、人間の生における中心的な経験としてありつづけるのである。それは最も共通のものであり、しかも最も共通しないものでもある。
多かれ少なかれ、愛は誰にも起こりうる。そしてそれがいつ起こったとしても、それは我々を確実に変質させることは間違いない。それは共通しており、しかも、共通していないということ。それは我々と究極との間にある架け橋なのである。