読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

愛 6

 愛はオーガズミックであり、我々の生命エネルギーは絶えず流れている。そのように実存もいつも途切れることなく流れてきた。これら二つの流れが出会い、互いに混ざり合って溶け合うと、一つのより高い統合が生まれる。それは部分が全体の中で出会い、全体が部分の中で出会うことによって、部分と全体を一緒にした以上の何かが生まれることになる。そのように出会いが起こったら、その何かが愛というものであろう。

 だから、愛こそ、人間の言語の中で最も意義深い言葉の一つだと言えるのではないだろうか。というのも、愛は実存的な言語だからである。しかしどういうわけか、子どものときから我々は不具になってしまった。それは感性につながる我々の根が切断されてしまったということであろう。我々は頭脳に向かうよう強制され、感性に向かって進むことを許されなくなってしまった。それは、長い間人類が苦しんできた一つの惨禍である。つまり人間は依然愛とともに生きることができないということになる。

 なぜなら頭脳は結果指向であるが、愛にとって、未来は存在し得ない。愛には、ただ現在だけが存在する。我々はこの瞬間に在ることはできるが、次の瞬間について考えることはできない。そのように愛においてはどんな計画も可能ではない、それは予測不可能だ。

 しかし、社会、文明、文化、学校のすべてが子どもたちに対してもっと論理的になるよう強制している。それは子どものエネルギーを頭脳にもっと集中させようとする。そしてひとたびエネルギーが頭脳に集中してしまったら、その同じエネルギーが感性に向かって移動するのは極めて難しくなってくる。

 事実、子どもはすべて大いなる愛のエネルギーとともに生まれてくる。子どもはすべて愛のエネルギーの中から生まれる。子どもは愛と信頼で満ちている。そんな幼児の眼の中を覗き込んだことはないだろうか? 子どもたちはどんなに信頼していることか。だから子どもは何でも信頼できる。子どもは、毒蛇とだって楽しく遊ぶことができる。子どもは、誘拐犯であっても一緒について行くことができる。子どもは、危険なほど火のすぐ近くに行くことができる。なぜなら、子どもはまだ、どう疑うかを学んでいないからである。

 それから、我々大人たちが疑い方を、懐疑主義を、論理を子どもたちに教えるのである。どうやらこうしたことは生存していくための尺度のようだ。我々は恐れを教え、用心を教え、思慮分別を教える。そして、これらが一緒になって、愛の可能性を完璧に殺してしまうのだ。

 そして大人になった我々が他人を愛せなくなるのは、その大人たちが偽るからである。大人らは物を愛し始める。というのも、物を愛する必要は大いにあるからだ。我々は代用品を探し続ける。ある人は自分の家を愛している。ある人は自分の車を愛している。ある人は自分の服を愛している。ある人は自分の金を愛している。もちろん家は我々を騙すことはできない。その愛は危険ではない。我々は車を愛することはできるが、車はリアルな人間よりあてにできる。我々は金を愛することができるが、金はすでに死んでおり、いつも我々の管理下にある。

 なぜ、こんなに多くの人々が人間より物を愛するのだろう? それに、たとえ我々がときには人間を愛したとしても、その人間を物に縮めようしてしまう。もし男性が女性を愛したなら、即座に彼女を妻に縮小する用意がある。つまり、男性は彼女をある役割に、妻の役割に縮小する用意があるということだ。なぜなら、妻であったなら、愛する人のリアリティーよりずっと予測可能だからである。

 同じように女性が、もし男性を愛したら、彼女は彼を物のように所有する用意がある。彼女は、やはり彼が夫になることを望んでいる。というのも、恋人の間柄ならもっと流動的であり、それはどうなるものかわかったものじゃない・・・・・・。恋人より夫のほうがずっと堅実に見える。少なくとも婚姻の制定が民法にあり、法廷があり、検事も警官もいる。また、夫に一定の堅実さを与えてくれる政府もバックに控えている。

 しかし、恋人というのはまるで夢人のようだ、あまり実質的ではない。だから人は恋に落ちると、すぐに結婚したがる、その用意がある。こんなにも愛に対する恐怖が存在しているということなのだ! そして、誰を愛したとしても、我々は相手をコントロールし始めることになる。これが、妻と夫の間で、母親と息子の間で、兄弟と姉妹の間で、友達との間で続いている葛藤であろう。誰が誰を所有するのか? これの意味していることは、誰が誰を限定するのか、誰が誰を物に変えるのか、誰が主人で誰が奴隷になるのか? というようなことに尽きるのではないだろうか。