東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

学ぶことの上手い下手

 我らの操体師匠である三浦寛師にはヒゲがある。 そのヒゲはそれ自体だけでは生えることはできない。 三浦寛という肉体があってこそヒゲが生えることができる。 そして、このヒゲとは本当に象徴的なものだ。 人間の霊魂は生きているが、その肉体は半分生きていて半分死んでいる、そしてヒゲはまったく死んでいる。 

 

 カラダに生える毛というのは肉体の死んだ部分である。 だから毛を切ってもどんな痛みも感じない。 指を切ったらそれは、それは痛い。 毛は我々の肉体の一部である・・・・・・が、毛を切っても痛みはまったくない。 それは死んだ細胞だからだ。 

 

 人が死ぬ・・・・・・ そして通夜の翌日は 友引である、日が悪いので葬儀は翌々日に施行となる。 するとどうだろう・・・・・・ ヒゲ無しで死んだ人間にヒゲが生えている! ヒゲは死んだ肉体の上にまで生えるのである。

 

 なぜならヒゲも死んでいるからだ、それは単なる死んだ細胞にすぎないからである。 そして、ヒゲを生やすのはとてもいいことだと思う。 ヒゲがあったら、鏡の前に立って自分の内の三つの層を見ることができる。 完全に死んでいるヒゲ、半分死んで半分生きている肉体、それから、完全に生きている霊魂だ。 これら三つのものが同時に見られる。

 

 ヒゲとは物資、そう、モノなのである。 肉体は物質と精霊の出会いのスペース、この出会いは常に困難だ。 だが肉体は、単に物質と精霊の出会う基盤にすぎない。 この出会いが崩れるときにはバランスが失われ、心は深刻になってしまう。 そして深刻というのは病気そのもののことである。

 

 ヒゲという物質は物質の中に再び吸収され、霊魂という精霊は精霊の中に再び吸収される。 そして、精霊は決して物質にはなりえない、ということだ。 

 

 師に教えを乞うとき、我々は師その人を見なければならない! が、師の肉体を決して見てはならない。 これは非常に象徴的なことである。 我々は自分を肉体だと思っているから、師もまた肉体だと考えてしまうのだ。 だが、師は肉体ではない! 師の肉体的側面は重要なことではないのである。

 

 教えに際して、自分の師と本当に接触することができるその方法というのは、自分の内側に入っていくことなのである。 自分自身の内側に深く入っていけばいくほど、師の内に深く浸透していくことができる。 師から教わることの上手い下手というのは、このように精霊的側面にアプローチすることができるか否かで決まってくるのである。

 

明日からは感覚を捉える名手、香実行委員です。

 

 

2016年春季フォーラムは4月29日(金)開催です。

テーマは「上手い下手について」