全ての習い事に「作法」がある理由は何でしょう。
師事することで、一定の時間をかけて学び取る努力する。
すると・・・不思議なことに「間」は進化するのです。
出来ることが増えてくる「間」と、丁寧に教えられても、
出来ない「間」というものはある。
それは、なぜでしょうか?
「認識」(←学問にしなければわからない)
認識できる空間は、学問にしていく。
「からだ」を通じて、いまここにある、
その瞬間、その空間に満ちている。
「重力」について。「空間」について。
そして、「次元」について・・・等々。
橋本敬三師は「間にあっていればいいんだ」と放言しましたが、
その言葉に、自分勝手な解釈や、気ままな解釈は似合わないのです。
ワタシ自身は、こう想っています。
貴方が感じたことを『ありがたいな・・・』とホントに想えるのだろうか。
何を感じていたら『生かされているんだな・・・』ホントに納得しうるのか。
そう感じられるような、縦横無尽に継続した学問の間でありたい。
そのような森羅万象を「MA」に教えて頂いて生活に活かしたい。
ならば、必要があっての「MA」は、魔になっても全く構わない。
間の抜けた奴になるくらいなら、魔のある奴と言われてみたい。
例えるならある意味で「間」には二つあるのだろう・・・。
一つは、一定期間習っていれば、誰でも到達できる「間」。
そしてもう一つ。
それはある意味で、「魔」は「間」に通じているんじゃないか。
意識を変換してそれをどのように扱うか?
教わるものではなく、感じるもの。
それは、創造主の愛している空間にあり、その想いを感じる「間」。
未来から今をつなぐ「進化」そのもの。
理解されにくく誤解を生じやすい、故に「魔」を意識で磨き続ける。
もう一人の自分はそれを望んでいる・・・そんな感じがしますネ。
それでは「MA」での一週間、お付き合い有難うございました。
明日からは、ナイトセミナーの感度王こと、日下実行委員の登場です!