東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

KAIMA。

おはようございます。

 

最近、いつも通っている道で道路工事をするようになり、日によって違う道を通ることが多くなりました。まぁ、気分転換にもなるので、多少の時間がかかっても色々な道の景色をたのしんでいます。

昨日とおった道では、赤い山茶花の垣根がありました。灰色のブロック塀沿いに歩くなかで、やにわに現れた山茶花の垣根。なにか圧迫感から解放されたような気分になります。

ブロック塀は風をとおしませんが、木の垣根は葉っぱと葉っぱの、隙間からとおる風が心地いい。寒い風だがなにか心地いい。

 

突然、垣根の下の方から茶色い猫が、飛び出てきた。鈴をつけているので、この家の飼い猫でしょうか。とにかく垣根の隙間はいろんなものが出入りしているようです。まぁ、泥棒が出入りするのは困りものですけど。

しかし、その泥棒だって外から中がどうなっているのか分からない構造のほうが、入ってしまえばこっちのもの、といった具合で仕事がやりやすいようです。それに比べて、ある程度の隙間があり、外から中の様子が垣間見えるぐらいだと、泥棒も外からの目が気になり仕事がしづらくなる、といった話を聞いたことがあります。

 

垣間見える、の垣間という言葉は、単独で使うことがないようで、単独では辞書にものっていません。しかし、垣間見える適度な隙間、間というのは大切に思えるのです。

のぞき見るっていうのがありますが、これは垣間見るとはまるで違うと感じます。のぞき見るっていうのは、何か作為や後ろめたさを感じます。しかし、垣間見るっていうのは、作為なしに目に入ってくるというか、見るように仕向けられているようにも感じます。

これは、垣根の内側の住空間だけに限らず、人間の表面には顕れない内面を、相手の意向に関係なく、なにか見せられているように感じるのです。

そして、それを見た時に、何かホッコリするような、安心するような、そんな気持ちになるのです。

 

何か気に入らない、いけ好かない人でも、意外な一面を見ることで、共感して好意に変わったりする事ってあるじゃないですか。

そういった垣間見る瞬間、間の時空というのは、単なる偶然的に生じるものなのでしょうか。

いや、それは垣間見る側見られる側に関係なく、誰もが潜在的に有している調和和親の能力なのではないでしょうか。調和尽十方。

自分の意識の及ばないところで、自分やまわりを親和に導く間のヒビキ。それを元にした顕現の仕方はまちまちでしょうが、それは確かに在ると思います。