東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

禅師廓庵のアプローチ⑥

昨日のつづき

 

 最終日は、廓庵の 「詩」 へのアプローチで、十牛図の最初に書かれた牛の探索である “尋牛” からのメッセージをひも解いてみよう。

 

 『この世の草原に、私は牛を訪ね、果てしなく、高い草をかき分ける

 

 この高い草とは何だろう? これはとても象徴的な言葉である。 詩というものはいつも象徴の中で語っている。 欲望という我々の牛が迷子になったその高い草のことを言っているのである。 

 

 数えきれない欲望・・・・・・ 我々をあっちこっちと引きずりまわす、大変な数の欲望がある。 そして、絶え間ない綱引きをやっている。 ある欲望は我々をあっちへ引っ張り、また別な欲望はこっちへ引っ張っている。 

 

 人生というのは丸ごと、ただあれこれの欲望の追いかけっこにすぎないのではないだろうか。 それで結局のところ、何ひとつ達せられないでいる。 ただ欲求不満の夢というか、欲求不満の夢の堆積でしかない。 振り返ってみれば、我々は今までに何を成し遂げたのか?  我々はやみくもに走りに走ってきた、が、それでどこへ着いたのか? これこそが高い草なのである。

 

 社会にいると、お金が誘ってくる、それから権力も誘ってくる、それで自分自身に 「なぜ自分はこんなものの後を追っかけなくちゃならないのか?」 と問いかけることもせずに、我々は常に走り続けている。 

 

 このように誰もが、そして、社会全体が走っている。 だが、誰ひとりとして根本的な疑問を問うことはない。 何が目的なのか? なぜ我々は走って、走って先頭に憧れつづけなければならないのか? 先頭に立って一体、どうしようというのか? 

 

 本来ならば、我々の内なる必要が何であるのかを見て、それから、それに向かって働きかけなければならない。 それも真面目に、知的に働きかけなければならない。 

 

 ただし、まず何が自分の内なる必要であるのかを見きわめることが求められる。  そして、その内なる必要は、我々は自分が誰であるのかを認識したときにはじめて認識され得るものである。

 

 ひとつ、とても根本的なことが理解されなくてはならない。 このように走り続けることが我々を満足させることにはならないということを。 なぜならば、それらは根本的な必要ではないからである。 ならば人は一体、何を必要とするのか? 

 

 その何かは自分自身の内に求められなければならない。 他の誰にも自身の道は教えることはできない。 我々は自身の内にこそ、その青写真を、「天命」 を持っている。 だから、何かに走るよりも前に最も基本的なことは、目を閉じて、自分自身のエネルギーに波長を合わせることである。 

 

 そして、それに耳を傾けることが必要だ。 そのうえで、それが語ってくれることは何であれ、自分にとってきっといいことに違いない。 そうすれば、自分自身、満足感を感ずることになるだろう。 私は、廓庵からのメッセージをこのように受け取りたい。

 

 

 次は 香実行委員が語る アプローチとメッセージ です  お愉しみに。

 

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