東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

「ミタテ」の考察➀

 テーマは 「ミタテ」。 

 

 日本文化における 「見方」 や 「見通し」 というのは、 「見立て」 という多次元の感覚によって、より瞑想的な直感を生み出すことができるようになっている。 ネット検索してみると、「見立て」 について実に多くのことが書かれているが、見立ての意味や瞑想的な直感を 「達成」 する方法については、大きく混乱しているように思える。

 

 誰かに何か見立てたことがあるかどうか尋ねたら、ほとんどの人たちが見立てたことがあると答えるだろう。 けれども、ふつう常識的に考えられているのとは逆に、実際には見立てというのは自分が為しうるものではない。

 

 本当のことを言うと、見立てとは、自身がどんな思いも寄せていないとき、自分が完全な無為の境地にあるときに、自然発生的に起こる何かなのであろう。 人々が 「見立てる」 と言うとき、それは、見立てが起こりうる状況をおそらく作れるだろう何かの見方をしているということになる。 しかし、いかなる 「見方」 も 「見通し」 も 「見立て」 そのものではない。 

 

 なぜなら、そのように我々は幼い頃より成長してきたからである。 我々の成長過程において、大人たちは子どもを心の焦点を定めるように、つまり集中するように躾ける。 どうしてなのか、そのように集中しなければ子どもは人生にうまく対処してゆけないし、生はそれを要求する。 だから、生きていくために心は集中できるようにならなければならない。 

 

 ところが、集中できるようになるとすぐに、醒めているということが少なくなる。 覚醒とは意識はしているが焦点は合わせていない心を意味する。 それは起こっていることすべてを意識するということだ。

 

 そして、集中とは選択するという意味でもある。 だから、集中の対象以外はすべて退けてしまうようになる。 それは視野を狭めるという意味だ。 たとえば、道を歩いているとき、歩くために自分の意識を狭めなければならない。 なぜなら、安全に歩くためには、起こっていることすべてに常に醒めているわけにはいかないからだ。 

 

 というのも、万事に醒めて気づいていたとしたら焦点は合されていない状態になってしまう。 だから集中というのは必須のものである。 心の集中というものは生きるために、生き延び存在していくためには必須のものだった。 それだから、あらゆる文化がそれぞれの方法で、子どもの心を狭めようとしているのである。 それは、見立てるという多次元の感覚からはほど遠いものだ。