東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

「ミタテ」の考察⑥

 真の 「見立て」 というのは、未知なるものについて見通すということだ。 そのためには既知なるものの内にとどまっていてはいけない。 自分の知識の境界内とどまるのは 「見立て」 ではなく 「もくろみ」 である。 そのもくろみゆえに極めて打算的になってしまう。 そうなると、決して充分な躍動的姿勢であるとはいえない。 

 

 このように絶えず計算している人々は、未知なるものについていかに計算できるのだろう? 自分が知らないものについて、いかに考えることができるだろう? それは量子的躍動ではありえない。 だから、取り逃がし続けることになり、「見立てる」 ことなどできなくなってしまう。

 

 自分の知識をすべて風に乗せ、投げ捨てなければならない、そんな勇気を持つ必要がある。 そうして初めて 「見立てる」 ことができるようになる。 この勇気とは一体何なのか? それは、自分の心が言い、自分の論理が言い、自分の正気が言っているすべてのことをものともせずに、それでも勇気をもって進むという意味である。

 

 自分は危険を知っている、危ういことも知っている。 それでも進むという意味だ。 自分が知っているあらゆることにも拘らず、それでも、ある体験の中に入ってゆくことを選ぶ、それが勇気である。

 

 こういった勇気ある人、勇敢な人というのは少し狂っている。 とはいえ、狂気には勇気以上のものがある。 狂気はもっと活気に溢れている。 狂気にはもっと多くの次元がある。 そして、未知なるものに入るためには、一種の気違いじみた勇気が絶対に必要だ。

 

 しかし、ひとたびその中に入ってしまえば、そのときには、勇気は不要になる。 それは最初に口火を切る地点だ。 ひとたび未知なるものの世界に入ってしまえば、ひとたび自分がその何かを味わってしまえば、そのときには、勇気は必要ない。

 

 とはいえ、自分の知識を捨てるというのは気違いじみている。 それを捨てるには途方もない勇気がいる。 実際、それを捨てるには大変な愚かさがいる。

 

 最近、こんな話を聞いた。

 ある男が車を運転していてパンクしたことに気づいた。 そこでドライバーは車を止めて、スペアータイヤとの交換を始めた。 その車を止めたのはちょうど精神病院の前だった。 ドライバーがタイヤを変えているところを、一人の精神病入院患者が塀越しに、しげしげと見つめていた。 

 

 そんな時、ドライバーはうっかり、ホイールナットを道路の路側帯にある下水口の集水桝の隙間に落としてしまった。 さあ、どうすればいい? しばらくすると、精神病院の入院患者がドライバーを呼んで、「残りの三つのタイヤのホイールナットをひとつずつ外して、それを使って、交換しようとしているスペア―タイヤを止めればいい」 と言った。 

 

 「すごく頭の切れる発想だ」、「素晴らしい見立てだ!」 と、ドライバーは語った。 「またどうして、そんな君がこんな壁の中に閉じ込められているんだい?」 、「それも単純明快さ」 とその入院患者は言った。 「俺がここにいるのは、決して馬鹿だからじゃない! 狂っているからさ!」