おはようございます。
【 自分は神仏の庇護の手のうちに摂取されているという信念、心裡に立つことができたら、神仏は全智・全能・全愛だと信じられたら、何もこの世の中に恐いものはなくなるだろう。
肉体を自我だと思い、現象を実在だと思えば、たえず自己防衛の恐怖心から離れることはむずかしい。「顚倒妄想を遠離すれば云々」という般若心経の言は、無いものを有ると思い込んでいるのが妄想であって、有るように見える現象は実は無いのだ、そこにとらわれている心を放せ、ということなのだそうだ。 】
と書いています。
これは、心の在り方に関しての提言でありますが、物理的な捉え方からも当てはまるものがあり、物理学が進歩して様々な現象が解明されていくほど、この心の在り方への提言は物理学的裏付けが成されたうえで、輝きを増してくるのでは、と最近感じています。
空間に対する認識も、ニュートンの時代から近年では随分と違ってきているようです。もう空間には何も無く、物質とは区別すべきものという考え方は通用しないようです。
目に見えないから何も無いわけではなく、空間に在るものとの絶えまない相互作用によって、この現象、この世界は構築されているという捉え方。
私たちの目に写る世界というのは、非常に大雑把でピントのずれた、自我に向く世界のようです。
通常の私たちの世界観から離れて、ミクロのミクロそのまたミクロの世界では、過去→現在→未来という時間の流れの概念も当てはまらなくなると言われます。
自我優先で考えてみると、自分の肉体や様々な物は、時間の経過と共に老化や消耗、エントロピーが増大するといった漫然たる想いを浮かべるのではないでしょうか。
しかし、自我を省いた、からだからみた世界では、絶えず空間との相互作用が起きていて、エントロピー(消耗)に傾いたりネゲエントロピー(回復、改善)に傾いたりしている。
その一番ネゲエントロピーに向かう時空というのは、無意識になる睡眠のときだというのは、なんとも皮肉なことだと思います。
それだけ、私たちは普段エントロピーに向いた生活を営んでいるのです。「息、食、動、想」を自然法則に合わせるようにするのも大事な事ですが、自然法則は自然環境を元とした様々な環境に適応する為に自在するわけですから、自然環境の大元であり、神仏の意志がヒビキ合っているいるような、そんな空間との関わり、空間との相互作用という事にも関心を向ける必要があると思います。
明日へつづく。