東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

「診断を超えた新たな診断」

おはよう。皆さん。午前中四時三十分です。この朝の時間帯でも、かなり蒸し暑いですね。風がある分助かります。
草階、どうだ体調は。急に姿をくらましたので、おまえのことだから地球の裏側で、昼寝でもしているのかなと思っていたが、活字に目を通す位はからだにさわらぬか、君の復活を願い心をこめて、ブログにかたりかけています。水、木と長いブログに皆さんお付き合い頂いて感謝です。少しは暑さを忘れて気分を変えていただけましたか。書くことにおいては全く苦にならないし、かなり楽しく集中できるのですが、この原稿を打ち込んでくれている畠山女史には頭が上がらない、あと二日よろしくお願いします。
今日の内容は「診断を超える新たな診断」を題して書いてみます。ところで昨夕上島珈琲のテラスでウトウト仮眠をとっていて、ふと気づいたのだが、点の渦状波の最中、操者側が感じて見ている色光現象について少し話してみたい。
ウトウトと仮眠しているにあると眼中に色を感じ見せられることがあるけど、臨床での色光現象とは、何か違うなと気づいたのだ。何が違うのかと云うと、テラスで感じて見ている色は流動的変化がなく、そうだな、複写したカラーコピーの色だけが写され残っている、そんな感じなのである。つまり、眼中に写し出されている色彩に動きの変化、形の変化、光の変化が無ということなのだ。何故、臨床中において、それらの変化がおこるのか、ということに注目してみたのである。その変化には、温感や熱感覚を伴う体液、リンパ液、血液の流れが関与する為に起こる現象なのではないかと、それは患者自身が感じみせられている色光現象も同じである。色光の変化とは、熱感覚をもって循環し、流れている存在があって変化するというのが私の考えなのだが、これは八割方、間違ってはいないだろう。なぜ、色を識別し、彩色の変化を与え、形を変え、流動しては消え、又再度くり返し点滅して消えていくのか、更に味わっている快感度が増すにつれて、色光がより明るくあでやかに写し出されてくるのか、その謎の一端が少しづつ解けてきたように思う。この快感度が質的要因を考えると、血液、体液、リンパ液の他にホルモンの分泌、働きかけがあることも考えられるのではないか。たとえば、セロトニンドーパミン、ノル・アドレナリン、アドレナリン・ATCH、ベータエンドルフィンなどである。この中で特に快感度の質と関与していると思われるのが、セロトニン、ドーパ−・ATCH、ベータエンドルフィンと、それらの快楽、快感神経と、脳の各中枢であろう情報伝達を司るこれらの神経と連結、関与しているのが、全身に張り巡らされている自律神経であり、この自律神経とキャッチングボールしているのが皮膚である。又その皮膚も、皮膚独自で快感物質を合成することがわかってきている。皮膚はからだのあらゆる情報にアンテナをはっている、その細胞にはケラチナ細胞、この細胞を無数の毛細血管や無数の束をなす自由神経終末が存在する。この自由神経終末に関しては、面の渦状波及び点の渦状波においても皮膚接触としての皮膚関与であるから交感神経に作用し、興奮をもたらすものではなく、この二通りの皮膚接触においては、副交感神経に作用してくるのではないか。副交感神経が作用することにおいては、脳がアルファ波のくつろぎを得る。血液は筋肉よりも皮膚により流れ、熱感覚としての原始的体性的また、働きを伴ってくる。その際、錐体外路系にスイッチが入り、不随意筋が刺激される。その際、ホルモンの分泌において、肉体的ストレスに関与するATCHの分泌と、精神的ストレスに関与しているベータ・エンドルフィンの分泌を促す。
点の渦状波でみられる「意識飛びの現象」はまさにそれである。からだは眠り脳は覚醒している現象が意識飛びその眠りの現象である。
 横森、どんなもんだろうな。横森はどうとらえる。おおおそ昨日私の脳裏に浮かんできたことを急ぎ文章にしてみたのだが、読んでみて、補足、補充すべき点があるはずなので、その気づきがあれば教えをこいたい。よろしくお願いします。

この半年、また急激に初診の患者が増え続けている。その理由の一つは、診立てが画期的に向上し、納得のいく臨床結果が引き出せているからだ。確実に患者の欲求を満たせているから、患者が患者を呼び込んでくる相乗効果が明らかに波動してきているのである・・。
その診立てとは、例えばFAXや電話で治療の依頼を受けたとしよう。私はその時点ですでに、この患者のからだのどこを診なければならないのか、どこを診れば症状が改善されて良くなるのか、その的確な診断がとおせるのである。診断がつくということは、つまり、診方、治り方がわかってしまうので、おのずと驚くような結果を引き出してしまう。
具体的に話すと、個々それぞれに患者が訴える症状や疾患が異なるにしても、疾患には必ずその火元になるボディーの歪みが存在している。その存在する歪みの中で、からだのどこの歪みが直接その症状疾患に関与しているのか、その火種になっている箇所も私にはわかるのだ。もちろんその火元や火種となる歪みの存在は患者が訴えている症状疾患のその部位でないことは明白である。その多くはまさか、と思うような部位に存在している。そのことは、橋本先生の言われているように、操体法には○○疾患、△△病を治すという発想はない、ということと一致する。症状疾患別にとらえて診てもわかるものじゃないということである。○○病、○○疾患といわれる病態変化とは警告反応としてのサインである。このサインを元(基)からキャッチしている火元、火種がボディーの歪みなのだ。だからこそ、ボディーの歪みの診立てが重要になってくる。臨床上、その着眼とからだのどこの歪みが、直接、その病態変化に関与しているのかという診立てそのものが大変重要になってくる。
生前、橋本先生は話しの中で、「操体法には○○、△△とかの症状や疾患を治すという発想はないのだよ、操体法は生活の間違いからおこるからだの歪みを正し、健康の元を正すことにある」のだと。臨床の基にあるものは、症状、疾患そのものの現象ではなく、火元と火種にある。そのボディーの歪みへの着目、着眼は不可欠なので、火元がボディーの歪みとすれば、火種とはその症状、疾患に直接関与している、からだのある部位の歪みの存在ということになる。その判断が備わってこそ、確たる診断、診療の本筋なのだ。火種がわかれば無駄なく著しく効率的に流れ、著しい結果を引き出せるのだ。この診立ては、その症状によってはパーフェクトに近い確率で診断でき、結果が出せる。その火種の所在は、数年前の私であったら間違いなくハズしていただろうと思われる。からだの部位に存在する。本当にまさかこんな箇所がと思える部位に火種が存在しているのだ。たとえばそれが足底の一点であったり、人差し指の第二関節の内側であったり、下唇の正中の一点であったり、また、手首拇指球の一点が火種になっていたりするのだ。

私のその診立てはかなり適確である。背骨の配列変位と、その周辺の軟部組織上の変化すら、胸椎の六番、その棘突起上の異常変化にしても、右背部のそこから約5センチ外側のその一点、とまで言い当てる。第三者に触診させながら、その周辺のここだという、その最大圧痛点のその一点まで指示、指導することができる。何をもってそのような診立てができるのか。その内その秘訣を同志諸君に公開するものである。私は、私の指導方針として、私にしかできない事は第三者に決して話さない。話して理解できることしか口にしない。ただ、公開するに当たっては、ある程度の基準を満たすところまで学んでもらうことが必要である。もったいぶって公表しないのではなく、意味がわからづ混乱させてしまうことがあるからだ。
私の診断と、それに伴う臨床的効果は患者自身にも十分納得しうるものである。医者に訴えてもわかってくれない、からだの状態を、患者本人以上にわかって説明するものだから、本人がビックリしてしまう。「やっと私の言っていることを理解してくれる先生と巡り会えた」と、涙を流さんばかりに感動してくれる患者も少なくない。患者本人が納得できる診立てと、臨床を確立していくことも大切なことの一つであるが、それは、からだの要求に適うことが一番大切なことに変わりはない。私流に言えば、からだが歓ぶように、命の歓びに適するようにである。
診断上、欠かすことの出来ない問診、視診、触診、そして動診であるが、その診断の前段階で、適確な診立てができてしまうその方法とは、種を明かせば、皮膚への接触と同様、全くシンプルな問いかけで診立てがつくことなのである。
まさか、そんなことなんだ、と思うに違いない。余りにシンプルな問いかけの有様に臨床家はそれを見逃し、複雑な手段に手を染め、迷走してしまう。皮膚にかんしてもアカとなって皮脱する角層には診断と臨床の価値がないものとし、見逃してしまってきている。それが、自分の治療の壁になっていることも知らずにである。本来、問診においても、患者に聞かづとも、おおよそ検討がついていてわかっていての問診であり、視診も視診する前の前段階で形態上の歪みがわかっていて、それを実際、視診をとおし確認することが本来の視診であり、触診も触れてみる以前に、その部位に形態上の異常があるとわかっていて、その部位を確認するのが本来の触診なのだ。
又、動診においても動診の前段階でその動きが不快なのか、又どの動きに快適感覚がききわけられるのかがわかっていて、分析することが本来望まれるのである。それは、そのすべてが一流、本物ということになる。動診分析してみなければ、わからないでは、本来まづいのだ。でも、それが普通なのだから、私の話していることは例外なのかもしれない。しかし、そうしたことが誰にでもできる、可能になる、ことなのである。今までの視診をこえていく、触診をこえていく、動診をこえていく診立てが古来数多くの先人達にもわかっていた。しかし他人に説明がつかない、その弟子に伝えようがなかったことであったのかも知れない。
しかし、その診断の可能な道理がわかった。きっちり説明もできる。この診立てが出来てくると、全てが見通せる、ことになる。その見通し方も、個人個人それぞれに創造しうるものになる。

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