昨日は体育の日。
天候にも恵まれ「体」を動かすいい機会となっていた方も多いだろう。
これをいい機会として捉えてみる。
運動を始めたころは、覚えることが多いほど意外と愉しめない。
「体」を動かす自分も真摯なら、「からだ」は感じる。
徐々に学びながら、運動や趣味にもコツはある、と知る。
はじめからコツを知っていれば「からだ」をゆがませることは少ない。
運動の効率がよく、きれいに表現するには、
手は小指側を効かせて、足は親指側を効かせる知識も必要・・・。
そして知識はなくとも、いつ、なんどきでも、だれにでもできることはある。
何よりも「感覚」を磨き上げることだ。
「快」と「不快」という感覚は、”享受”するのだから。
(享受:精神的・物質的な利益を自分のものとして受け入れ、
それを味わい、たのしむこと。〜福武書店、国語辞典より〜)
自分の頭で考えてもわからない。
難しいのではない。
この発想転換は体験していなければわかりにくいのだ。
ここに動診を通す際の陥りやすいパターンがある。
つまり、「楽」しか知らないのに言葉だけ変えてしまうのだ。
例えば・・・「楽」の場合
〜動きやすい
〜やりやすい
〜楽に動ける
・・・これは問題ない。
しかし「快」の場合に、
〜気持ちのよい動きを探す
〜気持ちよく動くようにする
・・・という思考で行っている方は多いようだ。
そしてこうなる。
「こんな感じでよいのだろうか」
「様々な操体法があって良い」
「気持ちよさを深めるという方向に探っていればいい」
・・・これでは「快」も、「楽」との相違も一生わからないままだ。
ン、相違って何だか知りたい?
そもそも、「ハイ、ストン」×3回程度で、つなげていたら永遠に謎のまま。
”自分の動き”と”からだのうごき”がある。
「からだ」で味わうのは「快」であり、
「自分の頭」でも味わえるのは「楽」となる。
これこそは、ききわけて味わう価値のある、自然の法則なのだから。
そして「からだ」は「楽」を選択していない。
つまり、「楽」で理解できていたことは「快」につながらないのだ。
「快」はわかってしまえば、「楽」と「快」の違いも当然のようにわかる。
まず、頭での理解よりも先に「快」を「からだ」でききわけること。
ン、まだわからない、どうしてだって?ならば・・・、
“感動”を食べてみたことはある?
“感動”を聞いたことはある?
“感動”をみたことはある?
それはあるかもしれない。
そして、感動そのものは、己の中にあって外には存在しないってわかるはずだ。
「快」は、そのもの。
「楽」はその結果。
ン、まだわからないって?
それなら丁度良い、東京操体フォーラムに参加して話を聞いてみて欲しい。
自己責任を費やす価値を見いだすのは今、選択したあなたなのだから。
常にお付き合いしていく「からだ」と共に。有難うございます。
「岡村郁生」
■2011年秋季東京操体フォーラムは11月6日(日)、東京千駄ヶ谷津田ホールにて開催予定です。