おはようございます。
昨日は最後に、「救い」→「報い」→「救い」という図を書かせていただきました。
これは、私達が絶対的な救いから生じ、相対的な報いの世界を生き、絶対的な救いに帰っていくことを簡単に表したのですが、思い違いをしてほしくないことがあります。それは、報いの世界で生きるのが辛いから、自ら命を絶って絶対的な救いに行こうなどとは、絶対に思わないでいただきたいのです。
そんな考えを持ってしまっては、せっかく絶対的救いからイノチをいただいている意味がない。
それに、今こうして、生きて、呼吸しているのも、それぞれのすべてのイノチに絶対的な救いが普遍貫通しているから、生かされて、呼吸していられるからなのだ。
800年前の禅僧、道元は「鳥の命は鳥にあらづ空にあり、魚の命は魚にあらづ水にあり」と言った。
人間は空気がなければ、すぐに生きていられなくなる。空気があるから呼吸ができて、生きていられる。
空気は人間がつくったものではない。絶対的救いによって生じたすべてのイノチがつくったものであり、絶対的救いが普遍貫通しているすべてのイノチがつくっていくものだと思う。人間もその中のイノチであり、イノチの循環の一員なのだ。
自分の思惑で息を止めて死のうとしても、先に酸素不足で意識が遠のいてしまい、その間に不随意的にからだが呼吸する為、死ぬことはできないと聞いたことがある。
自分の思惑とは別のところで、からだや自身のイノチ、それと相関相補しているすべてのイノチが、絶対的救いの元に、死なせないのだと思う。
すべてのイノチが、ここにいていいんだよ、と言っているのだ。
だから、自分がどんなに辛く感じていようとも、イノチを想い、自然に息を引き取るその日まで、一日一日生まれ変わりながら、生きていかなければならない。
どの教えにもあるように、自殺は大罪なのだと思う。
2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催。