まず、参加することで感じること(しないでどうこう言わない)
私たちの「からだ」を通して感じて理解できることもあります。
さておき、今日のブログもよろしくお願いします。
真っ直ぐに揃った背骨は、健康的な証?
常にきちんとした姿勢であれば健康維持できる?
この世の中にある常識は、時に私たちの自由を奪っている。
「からだ」はもっとシンプルに語ってくれている。
シンプルに「からだ」に「ききわけて」・・・・・・・・。
倫理は道徳を生みますが、道徳は人を自由にしてくれますか?
歪んでいるといわれても、ひずみがあってもゆがまないのは愛。
体が成熟すること、心が成熟すること、どちらが先でしょうか。
背骨が曲がっても、足の長さが違っても、顔が非対称的でも・・・
睾丸が右上がりでも、陰茎が左に曲がっていてもいいじゃない!
「コ・コロ」は常に意志が貫通しているわけですから、私たちの
「からだ」を通じて「意識」できるのです。これが救いなのです。
目的があってこそ、その現象・変化をうみだしているのですから。
・・・・・・「歪んで 助かってるんだ!」・・・・・・・と。
それが腑に落ちるまで、意識を通じて「からだ」に「ききわける」
このことを努々忘れずに、”朽ちることなく真理に繋がる”ような、
「操体」の学び”に”してほしいのです。
何故なら、「操体」を学んでいると感じる「操体法」の“法”とは、
まさに、“法=ダルマ”であると言っても過言ではないからですよ。
(注:ダルマの意味はググって下さい・・・では不親切なので後述・・)
この自然法則を大切に、「構造力学」も大切、操体を学びとるなら、
「運動力学」も大切に、私自身が自由とはいったい何か、現象のみ
に囚われず、見えない真理の探究こそ自由基準となるのですから、
その”軸”を感じとるように、コツコツ学んでいけば愉しい。
≪息相とワタシ~YouがMe~≫
生命に人間の「からだ」があるかぎり、停滞すると反応は現れる。
そこには流れやすい向きと停滞しやすい向きがある。
向きに前後・左右・上下と「息」を通してみると、通る流れと別に
通りにくい流れは、"反応"として見つかる。
そこに流れを取り戻した方向は現れてくる。
そのまま通して流れの勢いが変わり、極まった際に反応は消える。
「流れに身を逆らおうとしたところで無駄なことだ。
流れに身をまかせれば、どんなに弱い人でも岸に辿り着く」
=セルバンテス=~スペインの小説家~
・いい加減にやっている常識
・本当かなと思っている非常識
学びつつこの繰り返しを、幾度となく、限りなく、繰り返したのです。
非常識なコトを真剣にやり続けること→本当のホンモノになるようです。
岡村郁生
※注:「ダルマ」~「法」~「cosmos」の繋がりについて。
仏教的用語では、全宇宙を支配するような”秩序=コスモス”のこと。
すべての存在の背後にある真理のこと。
この全宇宙を支配するようなものがあり、それは逆に「法」の
真理においては、”お釈迦様”も、仏の生涯モデル”の一霊となる。
故に、全宇宙の法則における一例になっているというのです。
ですから、「操体」の「法」は侮れない一文字として捉えます。
ちなみに、有名な「気持ちよければなにやってもいいんだ」的
放言解釈において、師を生涯モデルとして師事しているならば、
「操体」の「法」を学びとおす上では、これを、限りない大きな
「快」に通じた宇宙の真理の探究としても捉えているわけです。
学びはある程度まで修めなければダルマ=真理とはわからず!
・・・かもしれませんが、しかしそれさえも「法」の上では自由です。