東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

中学の修学旅行だったと思うのですが、比叡山延暦寺に行ったことがあります。
自慢じゃないですがガキの頃からボーッとしてるので、ちゃんとは覚えていないのですが、精進料理なんか食べさせてもらって「どんなにマズいものかと思ったけど、なんだかウマいなぁ」なんて思いながら、仏様のことは全く気にもかけず。今とあまり変わりません。 
ですがこういうボヤッとしたガキにもビックリする事がありまして、NHK特集で以前放送された千日回峰行のビデオを見せて頂いたんですね。あの頃比叡山に行った修学旅行生は皆見せられたんじゃないでしょうか。


千日回峰行というのは比叡の山中を深夜に礼拝しながら巡る行で、七年かけて行われ、一年目から三年目までは毎年百日間、四、五年目は二百日間の計七百日間、約40キロの道程を巡り、六年目は約50キロの道程を百日、七年目は約84キロの道程を百日間、その後30キロの道程を百日間巡るというもので、しかも五年目の七百日を達成した直後には九日間、不眠不臥断食断水で堂に籠る「堂入り」があります。行者は首を吊る為の紐と自害用の短刀まで身に付けて臨むというまさに捨て身の行です。(回峰の道筋など行のやり方はいくつかあるようです)
このビデオに出ていらしたのは酒井雄哉さんという方で、千日回峰行を達成された後、もう一度千日回峰行を達成されたという有名な方です。

自分の想像を超えたこういう人がいる、こういう世界がある、そのビデオを観てまぁとにかくビックリしました。アホなガキは単純にスゴいなぁ、カッコいいなぁと思いました。
ちなみに同じビデオを観て、千日回峰行を志し、達成されたという立派な方がおられます。ウロッと精進料理を食べてたやつとは出来が違いますね。本を出されています(塩沼亮潤著「人生生涯小僧のこころ」)。

さてそのウロッとした人間が、20年ほど経ってから急に酒井雄哉さんの本を読むようになりました。酒井さんご自身の書かれた本も酒井さんを題材にした本もいくつか出版されています。読んでみると壮絶な修業ぶりとそこで得られた感覚体験もさることながら、自分とはかけ離れた超人だと思っていた人が以外と人間臭く魅力的で、そういう人がどうやってこういう難行をやり遂げていけるのか興味深く読ませて頂きました。もちろん大阿闍梨と呼ばれるような人と自分を並べる事はできませんが、酒井さんも人生に迷われていた時期があり四十から比叡山に入山されたということで、同じように迷って同じ年で操体に出会った僕はなんとなく感情移入をしています。

千日回峰行とは関係ないのですがその本の中の一つに書かれていた言葉が眼に留まりました。
「仏さまにも相対性がある。慈悲の相対、悲を中心にする人、慈を中心にする人、この二つの面があるんです。」(長尾三郎著「生き仏になった落ちこぼれ」より)
慈悲の相対、「慈」と「悲」。僕は今まで勝手に「慈悲」というのは「悲しみ」を「慈しむ」んだな、となんとなく思っていたのですが、「慈」と「悲」は別のものなんだと初めて知りました。この辺の事は日下さんにお聴きするのが確かなんでしょうが、ネットで調べると「抜苦与楽」苦しみを抜く「悲」と楽を与える「慈」があるようですね。
この「慈』と「悲」の考えでいうと、僕は今までからだを診るというのは苦しみを抜く、病気を治す「悲」なのかなと思っていました。でも操体を知って、より「病気治し」ということに違和感を持つようになりました。病気さえなければ人は幸せなんだろうか、人にとって本当にきもちのよい事とはどういう事なのか、操体的には「楽を与える」という言葉には抵抗がありますが「苦しみを抜く」というイメージに囚われなくてもいいのかな、と思っています。

最後に同じ本の中から最澄の言葉を。
「明らかに知んぬ、最下鈍の者も十二年を経れば必ず一験を得る」(顕戒論)
どんなに能力の劣ったものであっても、一つの事を十二年間続けるなら必ず一験を得られる。酒井大阿闍梨もこの言葉に動かされたそうですが、僕のような者にはありがたい言葉です。