「西の方に熊曾建二人有り。是れ伏はず禮なき人等なり。故、其の人等を取れ」(古事記)
時の景行天皇はヤマトタケルをして、各地の中央政府に仇なす賊を討伐させている。
記紀によると、ヤマトタケルもまた、粗暴な性質を父に恐れられていた。
物語でも征討の旅の途中に倒れることになる。
鹿児島県の大隅半島に曽於(そお)の地名がある。曾(そ)を連想させる名前である。
曾は後に贈於(そお)と呼ばれた。
だが、古代の曾はもう少し北へ移動した地域にあった。
ヤマト王権の南征に激しく抵抗したが、大軍の前に屈せざるをえなかった。
曾は中央側からはあるいは襲と呼ばれていた。おぞましさを連想させる語をあえて選んでいたようだ。
「彼梟帥(たける)どものいと建(たけ)かりし故に熊曾とは云なり、熊鰐、熊鷲、熊鷹なども皆、猛きを云称なり」(古事記伝 本居宣長)
クマ・ソである。
ヤマト王権に組み込まれた後は、警護の役につく。吠声や歌舞の呪術性も魅力的だったらしい。
そしてクマソの名は史書から消える。
吠人(はいと)南風(はえ)朱雀(隼)、諸説あるが、彼らはハヤトと呼ばれるようになる。
参考文献
「隼人の古代史」(中村明蔵)
「熊襲・隼人の原像」(北郷泰道)
「鬼の研究」(馬場あき子」 他