如月も明日でおしまい、もうすぐ女の子の《雛祭り》がやってまいります。春もすぐそこですね。
今日から1週間東京からお送りします。よろしくお付き合いください。
「性」という素晴らしいテーマを先生からいただきました。ありがとうございます。
異性を意識し、なんとなく性というものを意識してからずっと、興味はありましたが、真面目に取り組んだことはいままでの長い人生のなかで一度もありませんでした。とてもよい機会をいただいたと思える1週間になればと祈っています。
中学二年生の時、同じクラスの男の子に恋をしました。きっと初恋だったのでしょう。その当時体育の時間に、着替えをする特別な場所はなく、男子が出入りする中で着替えなければなりませんでした。しかも隣の席が、気になる彼の席だったのです。とても恥ずかしくて恥ずかしくて消えてしまいたい、と思ったことがありました。今の若者が聞いたら、ばかじゃないか、と思うことでしょう。
そんな私が、頭で考えていたことは、愛し合っていれば身体を求めあうのは自然なことである、ということと、大人が自然にしていることを子供がなぜしてはいけないのかということでした。平成生まれの若者には分かりにくいと思いますが私の思春期にはそのようなモラルがあったのです。
少し遡って、女の子特有の初潮の話しましょう。性教育をほとんど受けていなかった私にも初潮がやってきました。母からどんな説明を受けたのか全然おぼえていません。なんの感情もわいてこなかったのだと思います。この女性にしかない生理という現象は、ただ毎月やってくる面倒くさいものという認識しか私にはありませんでした。
私は何故か男の子になりたかった女の子でしたから、ふつう?の女の子と同じではないかもしれません。
思春期の私がけんめいに考えていたことは、からだの線を人に見せたくないということ、それが極端になると肉体なんてなくなればよい・・・でした。
肉体のない私ってどんな私なんだろうと懸命に考えていたのでしょう。
子供として生きていてもちっとも楽しいこともないし、気持ち良いこともないなどと悩んでいたのだと思います。
その頃、今日のようにお年寄りが多くなかった頃、おじいちゃんとおばあちゃんがなかむつまじく手をつないで歩いている姿を、なんて素敵なんでしょうと眺めていた私がいました。
今思い返してみるとなんと複雑な子供だったんだろうとあきれてしまいます。
今日はこの辺で終わりたいと思います。ありがとうございました。
鵜原増満