東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

性論〜その6〜

〜今まで知らなかったことを知る喜び〜

(モノゴトに精通したい)
小学校3・4年生用の「新しい保健」の教科書を見ていたら、知らなかったことが載っていた。
〜文章より抜粋してみれば、女子の初めての月経を”初経”という。
これは理解していたのだが、男子の初めての射精を”精通”というらしい。(いや〜良い勉強になったなァ)
それにしても、ワタシの場合、童貞喪失ははっきり覚えていても、
”精通”ってのはいつだったのか?さっぱり覚えていない(笑)

(性の考察)
さて、紀元2世紀のギリシアの医師ガレノスは、
男女の生殖器のぴったりした”間”の相補性について、なかなか面白い考察をしている。
「女性のものを外に向けて裏返す、あるいは男性のものを内側に折り返してみれば、
 両者があらゆる点で同じことがわかるだろう」と述べた。
それにしても「性」の面白い考察はかなりある。
コメディアンのマーティ・フェルドマンは、「セックスは二+二が五になることだ」と言っている。

(だからAVは必要?)
これは「性」に限らないが、脳の専門家、池谷裕二氏によれば、
「ミラーニューロンは脳内にあって、目で見た他人の動きに対して”共感する機能を持っている神経細胞である」という。
例えば、相手がアイスクリームをすくう時に見ていると、こちらもスプーンですくっている時の神経細胞が発火する。
つまり、見ている相手のなかで起きている、筋肉の興奮・筋反射とか、皮膚の感覚が『内側』からわかる。
このミラーニューロンが活性化していくことによって“転写”が起こり、相手の内側で起きていることがわかるようになる。
客観・鳥瞰・俯瞰的な感覚に“共感”できるばかりか、自分の身体の一部のように感じられるようになる。
ちなみに、このミラーニューロンを刺激する薬を人間に投与してみると、幽体離脱のような現象を”自分で見る”ことになるらしい。
考えようによってはまるで、興味により磨かれていく、非常に応用範囲の豊かなニューロンのようではないだろうか・・・。

生殖器と民族性)
大きく言えば、男性と女性の違い、それは生殖器
聞いたところによれば、特に西洋において”性器”と言えば主に男性生殖器を指す。
つまり西洋人にとっては、行為そのものに夢中になっていても、東洋人ほど女性の性器に興味はないらしい。
なので、西洋ではストリップショーも、服を脱ぐプロセスがメインとなり、最後の一枚は終了なのである。
驚いたことに民族性とはこのようなところにも関連している。
それに対して日本人はそうではない。
近代においては、興味があればこそ規制も厳しく、少し前まではアンダーヘアも禁止だった。
もともと(古事記を読めばわかるが)性に関して非常におおらかで「性」に明るい民族性を育んでいたのだ。
もともとが最先端なのだ。おおらかである土壌を大切に育んでいた。何一つも馬鹿にされるような文化ではない。
まさに、美しい国ニッポンなのである。
しっかり学んでこそ、文”化”に、くさかんむりが生じて”花”も開く。

興味があるなら、色々えり好みをせず学んでもいい。
橋本敬三先生の著書のある一節にも「下品=げぼん」という女性生殖器の位置表現がある。
これは、舜露庵主人著『江戸の色道指南書の系譜〜葉文館出版〜』のなか、
『艶道日夜女宝記』にある女性器7開のバリエーションの一つにもあって、
「新開」「中品」「下品」「土器」「毛開」「核長」「前膝」というのもあるらしい。

ここ訴えたいことは、ニッポンの女性達は素晴らしいと言うことだ。
「性」の文化をおおらかに受けとめ、多くの男性に対する武器となり、宝ともなっている生殖器を、
古来より”性の絶対的な違い”として、しかと認識しているのだろう。
(ただ、更に聞いた話によれば女性器愛好のチャンピオン文化は、イスラムの世界。
 今も確認できる一つの根拠として、女性器に関しての語彙が最も多様なのはイスラム語)

要するに、興味も人それぞれの自由。素直に受けとめて”自然法則の応用”こそ大切。
国や民族性もあるのだから、いくら我こそ正しいと威張っても、受け入れやすくはならない。
我を通す「性」のゴリ押しであっても、「相手」に受け取って貰えない。
相手を思いやることも愛。それは自分の中に元々在る愛。そして限りなく自然の波動に近い愛でもある。

そういえば、小説家・漫画家等の肩書きを持っている内田春菊さんが諦めたように書いていた。
エロチックな描写シーンが過激になっているたびに聞かれてうんざりするらしい。
「スゴイですね〜あれって内田さんの経験談ですよねぇ」
「いいえ、違いますよ。自分で考えたことですよ」
「また〜そんなこと言って誤魔化しちゃってェ(ムフフ)」
特に、男性にこういう輩は多いそうである。
いくら自由といっても、これでは結局、自分勝手な想像を目の前にいる女性に照らし合わせ、自慰しているのと同じだ。
自制とは自己責任。手前で想像するのは勝手だが、相手に迷惑をかけてはいけない。

        
                              岡村郁生