東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

感じる(3日目)

昨日の続き
我々の頭というのは緊張で一杯だ。そんな頭など必要とされない、我々が常に混乱を引き起こしているために頭は緊張している。たとえば、SEXのことを考えている人は混乱を生み出している。というのも、SEXはあれこれ考える筋合いのものではないからだ。思考の中枢はそういうことのためにはつくられていない。SEXにはSEXの中枢がある。それなのに我々は頭を使ってSEXの中枢の仕事をしている。SEXにおいては、からだという感覚の中枢へ深く飛び込まなければならない。SEXはひとつの総体的行為である。性交の中では頭から投げ出され、バランスを失ってしまう。それが理由でSEXの恐怖が非常に強くなる。我々は頭と同一化しているが、SEXは頭無しの行為だ。もし、SEXの中で何かの知的プロセスがそこにあるとしたら、そこには真実の性行為はなくなってしまう。そのとき、そこにはオーガズムはなく、性行為そのものが非中心的で知的なものになる。
現代社会がSEXの押さえ難い欲望、ひどい渇望が蔓延しているのは、社会がよりセクシャルになったからではない。我々自身がSEXを総体的な行為としてエンジョイすることができなくなったからだ。SEXの行為が頭に変換され、思考するようになってしまった。特に男性はSEXに対して考え、読み、ポルノグラフィティーを見て楽しんでいる。そのことを楽しんではいるが、SEXの実際のその瞬間が来ると、突然、興味が無いと感じてしまう。インポテンツになってしまったとさえ感じる。SEXについて考えているときは、活きたエネルギーを感じるのに、実際の行為に移ってゆく時、そこにエネルギーが、その欲望さえも無いと感じる。肉体が死んでしまっていると感じる。男性に何が起こっているというのか? SEXという行為でさえ知的になってしまったのだ。男性はSEXについて考えることはできるが、それをすることができないでいる。
今までにSEXについて聞いたこと、SEXについて学んだこと、それらについて社会が話していることのすべてを忘れて、SEXの中に移ってゆかなければならない。総体的にSEXの中に巻き込まれなければならない。むしろSEXにとりつかれるのが自然な行為だ。それをコントロールすべきではない、狂ってしまったかのようにその中に移ってゆくべきだ。頭無しの状態というのは狂気に似て見える。SEXでは肉体にならなければならない、動物にならなければならない、なぜなら動物は全体だから。
恋愛の中にあるときでさえ、SEXについて考えてしまう。それを決して感じはしない。感性の中枢が働いていないということだ。またしても文明人であればあるほど、このように知性の中枢はますます過労になる。ほかの中枢は働いていない、いや、機能していないのである。それもまた緊張を生み出すことになる。何故なら、本来働くべき中枢が、働くべき特定のエネルギーのある中枢が何もすることなく放っておかれているからだ。その中枢は、その使われていないエネルギーで過剰な重荷を負う。
頭という知性の中枢は過労になり、感じられないにもかかわらず、感じるよう強要される。しかし、頭は感じることはできない。考えることしかできない。思考の範疇は、感覚の範疇とは全く違う。ただ違うばかりではなく、正反対である。感覚の論理は知性の論理ではない。愛には愛の思考法がある。それは頭の思考法ではない。なのに、頭はもともとそうするようにはできていないことまでやらなければならないわけだ。そのために頭は過労になり、緊張が生まれることになる。もし中枢がそれぞれの仕事をしていたなら、そこにはくつろぎがある。頭だけが中枢ではないのに、我々は頭だけが中枢であるかのように動くために、静寂やくつろいだ姿勢を、人間の森羅万象との波長をすっかり壊してしまった。
頭は働かなければならない。頭には機能がある。しかし、それは非常に限られている。頭には荷が重すぎる。我々が受けた教育はすべて、この一つの中枢にしかかかわっていない。まるで中枢が一つしかないかのように教育されている。それは頭の中枢、数学的理性的な中枢なのだ。生は理性ばかりではなく、むしろ生の大部分は非理性的だ。この理性的な部分は、ほんの一部にすぎない。それは全体ではない。また、全体とみなされてはならない。さもなければ、緊張が結果として生じてくる。この緊張はからだの筋肉細胞にもっともよくあらわてくる。だからこそ操体の般若身経には深い意味がある。なぜなら、般若身経のような意識的なからだの動きというのは、思考や感情に連結しており、感じるという感覚の範疇に入る可能性がもっとも高くなるからである。
明日につづく


日下和夫