東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

『瞳をとじて』

♪ひぃ〜とみぃ〜 をとぉ〜じてぇ〜 きぃ〜みぃを〜えがぁ〜くよぉ〜
すぉれだけで〜いぃ〜いぃ〜♪

滅多に行く事は無いのですが、たまにカラオケに行った時にはついつい熱唱してしまい周囲を完全に引かせてしまう秋穂のこころのベスト10の上位にランクする名曲です。丁度この曲は『世界の中心で愛を叫ぶ』(以下セカチュウ)という映画のテーマソングになっていたので耳にした事があるという方も多いのではないでしょうか。主人公の男が若くして無くなってしまった昔の恋人の事を回想するという何とも女々しいストーリーなのであるが、元々女々しい秋穂にとってはかなりのツボで号泣いたしました。梅雨に入り、久しぶりに中村獅童竹内結子の共演作である『いま、会いにいきます』を観て、性懲りも無くまた号泣してしまいました。ちなみにこの作品で中村獅童演じる男性の苗字は秋穂と書いて(あいお)さんでした。素直にあきほさんと読んでくれれば2割増で号泣出来たと思います。

映画の話はさておいて、この瞳をとじるというという行為ですが、この歌の歌詞の内容では、失ってしまった恋人の事を回想していく為に瞳を閉じるのですよと書いてあります。瞳を閉じることで視覚を遮断し、過去の恋人をイメージしやすくしているのでしょう。というよりも目を閉じないと視覚の情報を記憶からアウトプットする事って難しいと思います。目を閉じる事で自分自身の内にあるイメージや感覚をより意識しやすくしているのでしょう。そういえば歌を歌っている人や楽器を演奏している人が、目を閉じてその音楽に浸っている時も同じ様な状態なのでしょうか。先日知人のヨガのインストラクターの教室に参加した時に、「ヨガのポーズをとっているときは絶対に目をつぶらないでください。」と注意を受けたのですが、これはヨガの「最中は感覚をききわけないでください。」という事なのでしょうか?リアルヨギでもある日下実行委員に今度伺ってみたいとおもいます。

操体法創始者である橋本敬三医師は亡くなる前に「私は祖神の里へ帰らせていただきます。」という内容のメッセージを残されたそうです。これは死の瞬間を迎えるにあたり、イノチが消滅するのではなく、肉体が誕生する前の世界へ帰りますという死生観からでた言葉なのですが、肉体が自分自身の実相ではなく、肉体は魂を一時的に預けている器として考えると、誕生と死去がはじまりと終わりではなく。私達のイノチは永久不滅のイノチであるということであるから、死に対して何も恐れる事は無いし、自分の大切な人が亡くなってしまうことも、永遠の別れなのではなく、姿は見えなくなったとしても、いつもすぐそこにある存在に変化したと考えられます。実際に私の身内に不幸があった時にこのように考えられるのかは、その場になってみないとわかりませんが、私の学生時代の友人が亡くなったときも、祖父母が亡くなったときも、肉体が亡くなった事でより近い存在に感じられるようになった気がしますし、実際に今も仏壇やお墓参りで手を合わせる時以外にも常に「じいちゃん今僕は間違った事しとらんかね。」とか「僕は今何をすれば良いちゃろうね。」など結構頻繁に話をしています。私は橋本先生に実際にお目にかかった事はありませんが、その直弟子である三浦理事長からその人となりを伺ったり、その著書や生前の映像を目にして来た事で、より明確に橋本先生の存在をとても身近に感じる事が出来ています。肉体的には今は存在しない人なのですが、イノチの波動は今でも感じる事が出来ています。橋本先生や私のじいちゃん、ばあちゃんは肉体と言う形のある器を脱いで、より自由な存在となり、いつでもどこでも誰にでも感じられる存在になったのでしょう。ただその受信機がポンコツで感度が鈍ければ折角の波動を感じる事が出来ないのかもしれません。私は操体で行っている感覚のききわけとは、このイノチの波動を感じる感覚受容器のクリーニングを行っているのではないかと思います。自分自身のイノチも、自分以外のイノチも、肉体という器から抜け出てしまうと同じイノチのだから、自分自身が鈍ければ自分自身のイノチも感じる事が出来なくなってしまいます。瞳をとじてたまには自分自身のイノチと対話してみましょう。


「は〜っ、操体ってなかなか奥が深いんだな〜」太宰府の中心で快を叫ぶ

東京操体フォーラムin 京都2011は8月28日(日)に開催されます。北村翰男(奈良漢方治療研究所、奈良操体の会)、三浦寛

Sotai Forum inMadridは、9月24日、25日の二日間、マドリードにて開催致します。三浦寛

2011年秋季東京操体フォーラムは11月6日(日)、東京千駄ヶ谷津田ホールにて開催予定です。