『万波は水を離れず』
唐突ですが、これは仏教の言葉で『大乗起信論』にあります。
簡単にすれば、「いろいろな水があるけれども、それでも同じ水でしょう。だから信じましょう」という意味です。
そもそも、私たちは自分の背中を見ることができません。
「心」とは相手に繋がっているのでしょうか?いつからかワタシにそんな疑問が浮かんでいました。
見えていない(不可視)私たちの後ろには、いったい何があるのでしょうか。
そこで時間の進み方、空間の関係性、そして時空の超え方について思考してみたのです。
操体を通じて学びながらのここ十数年間には、ワタシの知らなかった自分の背中を見る機会を何回も頂いています。
東京操体フォーラムの活動はモチロン、その後の懇親会や、第二日曜日に行われている実行委員勉強会もそうです。
言葉とは黙読という方法もありますし、読み方は自由なんですけれど、一説によれば、
昔の人間は読む=音読することが当たり前だったようで、声を出して読んでいた方も多かったようです。
その際、単なる符号としている言葉もあれば、その意図と目的がある言葉もあります。
それは息を通して、言葉にしてみたら理解できます。
感じることが先、と言うことになります。
それは、橋本敬三正師と繋がっている、三浦理事長の継承・更新している操体を学ぶこと。
そして実際に、操体の学びを通して『快』をききわけて味わえること。
ここに無限の可能性として、不可視にも繋がって・・・まさに自由になっていけるのです。
自由とは、”繋がっている”からこそ!の学びにあるものなんですよネ。
個人レッスンの時三浦理事長は、相手の生活意識にも繋がる”自由”について、こんな話をしてくれました。
「相手に『勝手にしろ』とは言わないよ。それでは(私が)色々と立ち入る”余地”はないからネ」
「ただ、『自由にしろ』とは言うよ。相手のやってきたことは(私も)認める。
そしてこれから、相手のやろうとしていることに対しても、何かあれば、腹を括って全面的に後押しするヨ、と言う意味でネ」
「『自由にしなさい』といっても、どこまで(相手は)わかってくれたのかナ・・・」
なるほど然り。ワタシも含めて相手もどれくらいわかっているのか。
どの程度でわかったつもりになってしまうのか・・・わかったつもりになっていないことは、かなり大切な意識なのです。
さて話を変えまして最終日のテーマは、本題の『時間の進み方』について書かせて頂きます。
すっかり夜更かし習慣のある方も、早寝早起きがモットーの方も、昼夜交代制で勤務している方も、バブル期の某実行委員のような夜間に勤務している方も、
様々な方がそれぞれのスタイルで睡眠をとっています。
よく「睡眠時間をとる」ともいいますが、その時間を”どこ”から”とって”いるのでしょう。
そもそも人間は、どのくらい眠ればいいのでしょうか?
生まれたばかりは長く、加齢と共に短くなるという説、7〜8時間がいいという説、
日中に眠さを感じなければ個人差があって良いという説もあります。
それで有名なのは、ナポレオンの3時間睡眠とか、アインシュタインの10時間睡眠です。
また、一般常識の壁を、大きく越えている方もいます。
例えば、睡眠時間のようには決めないように、
夜は眠るもの朝は起きるもの、というキメゴトを外しているような生活をしています。
思うに無理がないというのは、からだに適い、自然の法則の範囲内にあるということで、
自身の生産性の高い”意識”にあってこそ可能になる、というところでしょうか。
その上で、本当に必要なのかは、信頼できる”からだ”にききわけていればいいのですから。
考えてきめていたことから、瞬間で意識していくことに変わってから気付くことは多いのです。
時間の過ごし方と言えば、時代が変わってきた19世紀から20世紀、そして21世紀現代では、
ひとりひとりの毎日があり、戦争のような集団行動で拘束されることも少なくなり、
それぞれに、生活のゆとりは違ってきています。
それにしても”人間”である以上、共通するルール、最低限の法則はあるのです。
「毎日、おなじことの繰り返しで1日なんてあっという間だよ」という方もいます。
「いい歳になったけれど、歳を重ねても未だに子供の頃とあまり変わっていない」という方もいます。
そして、人に言われるがままに行動し、そこに自分の生活時間を重ねている方もいれば、
できる限り、自分の意識で時間をコントロールできている、そのようにしている方もいます。
集中していれば1日が過ぎるのがとても速く感じても、充実感を味わっていますから、
後味がいい気持ちよさを感じています。
集中できずに時間の経過がとても遅く感じて苦痛を味わっている方もいます。
(入眠障害・中途覚醒などの睡眠障害などは典型的ですね)
ワタシも少し前まで、時間の進むのが速く感じるのは、
きっと年のせいなんだろうな・・・と人事のように思っていたのです。
しかし、どうもそれでは説明できないようです。
時間というのは、非常に個人的ななかで起こっている現象に過ぎないのではないか・・・と。
なぜなら、どうしても自分がやり遂げたいこと。
ここにある意識として、意識できている瞬間、また次に訪れてくる瞬間の意識は、
それを時間内に、ほぼ可能にしているのですから。
つまり、忙しくてもこれだけはやっておくぞ!と、意識してみると、
後になってみればちゃんとできていることが圧倒的なのです。
なので、たった15分が倍以上のくらいの速さで進んで(遅れて)、
その必要な要求を満たしてくれるのですね。
ということは、生活時間の外にそのような何かが働いている可能性を否定できません。
結果として、そのように時間が進む(遅れる)ことこそ、自然の法則に適っている、と感じています。
ですからそんな時には、『サイボーグ009』の島村ジョーの「加速装置」とか、
『ジョジョの奇妙な冒険』のディオ・ブランドーのスタンド「ザ・ワールド」のように時間を止めて動いたり、
あの東北リンゴ農家の木村さんのように「時が止まっているときに竜がいた」と、そんな次元を垣間見ているんじゃないかとさえ思うのですが・・・(笑)
つまり、時間というのは絶対的なのではなく相対的なものであって、私達の意識が大きく関わっているように感じるのです。
自然法則のなかで、何かの理由があって意識は更新されてるのは『時間』、イノチからすれば自然な流れとなる。
「快」は、私達を”時間に拘束されているトラワレ”から解き放ってくれる「道」に繋がっているに違いありません。
〜『平常心是道』〜ある禅師の言葉より〜
「道は考えてわかるものではないが、しかし、わからないと言ってしまうこともできない。
考えてわかるならそれは妄想であり、わからないとすれば、無自覚というものだ」
誰にでももともと生まれながらにして備わっているなんて、素晴らしいことです。
ワタシも記憶も飛び飛びになりながら『マ』をつないだ一週間でした。
みなさまにはお付き合い頂きまして、本当に感謝しています。ありがとうございます。
明日からは、東京フォーラムin京都での発表を待ち望まれる、日下実行委員の登場です。
よろしくお願いいたします。
岡村郁生
東京操体フォーラムin 京都2011は8月28日(日)に開催されます。北村翰男(奈良漢方治療研究所、奈良操体の会)、三浦寛他
Sotai Forum inMadridは、9月24日、25日の二日間、マドリードにて開催致します。三浦寛他