地図、北極星、コンパス、ナビゲーションシステム。
全く知らない地域も安心して動ける範囲は広がっていく。
ただ、いつの時代においてもそれだけではない、独特の”勘”は大切にされる。
いつものルート、いつも通りの流れには、同じところにたどり着いているようで、
同じ経過や同じ結末になるとは限らない。むしろ異なっていることが多い。
生物学においても、
環境に関係なく、同じことを繰り返している、というのは結果として退化に過ぎない。
脳は記憶と学習を反復して、それを駆使しようとするが、
新たなことに対応しているとは限らない。
むしろ、意識されていなければ簡略化された方法をとっている。
例えば、目の前に全く見たことのない果物があったとしよう。
まず味わう前に、見て、嗅いで、触れて、判断して、
食したければ口に入れてみるのだろう。
口に入れたものの、いつでも、常に何かを感じ続けている。
そこで初めて、”飲み込んでみたい”という”要求”に満たされればこそ、
嚥下はおこり消化吸収さらに排泄、という無意識に繋がっていくのである。
それを、天然、自然の成り立ちとするならば、「快」と「怪?」の違いもわかる。
そして違いではなく、比べられない!といってもいい、のは「快」である。
「楽な状態」とは、特殊な環境であって永遠に続くものではない。
「楽な状態」を当然と思っていては、危険な状態なのではないだろうか。
便利な状態を受け入れてしまうと慣れてしまう、それはマヒしているのだ。
「アッ!それって知ってる〜今評判だよね〜美味しいよね〜(パクッゴックン)」
というのは「からだ」の関与しない、情報操作された脳の横暴であり、
現代社会の生産した(安全性?)管理システムではないか。
私たちそのものは「イノチ」の集合体である。
本来は、歪みを生じるからこそ、自らの生命を救う鍵を握っているのである。
子供はそもそも無理をする。
それは学習となって、その都度勘違いを指導してもらえる機会は多い。
しかし、大人こそ本当の無理をする。
そこで知らなかったこと、勘違いしていたかもしれない・・と知って欲しい。
起こってしまった下痢を、無理矢理止めるのは危険というのは、
一般的な医学的常識でもある。
起こってしまった歪みこそ、私たちの「からだ」にとっては、
有り難い元に戻るチャンスなのだ。
調和しているとき。
これは間違いなく、きもちがいい。
そこから何をしてもいい状態であり、なにものも受け入れるから。
偏っていればどうか。
まず、何をしても受け入れがたく、還流効率が悪い。
それは、気持ち悪い。必ずわかる。これは生命の意志。
なぜなら、イノチあるものは常にバランスを取る方向に向いていく。
つまり、調和していくことは生命の意志でもある。
一定の歪みが生じ「からだ」にとっては不快な状態を、
元通りとするには『きもちのよさ』として感じられるかどうか。
それさえ面倒にしてしまえば、『からだ』任せにした”ツケ”を自己責任で背負っていく。
生かされし己の責任において行うこと、これは最低限度の『楽』ではなく、
最低限で『快』くらいは、喜んで自己責任を負いなさいということ。
”法句経”には、こんなたとえがあります。
「水道を作る人は水を導き、
矢づくりは箭を矯めす。
大工は木材を矯め、
智者はおのれを調える」
今日も働いた自分のご褒美にビールもいいけれど、「からだ」に感謝を忘れずに。
岡村郁生
■2011年秋季東京操体フォーラムは11月6日(日)、東京千駄ヶ谷津田ホールにて開催予定です。