東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

自然の法則にみる「快」と「楽」

今回は『快』と『楽』の違いというテーマであるが、常識的に言ってもその違いは一目瞭然である。昔は、東海道五十三次というように歩いて旅をしていた。今は新幹線や飛行機であっという間に着いてしまう。こういうのが『楽』という感覚である。そしてある日の昼下がりの午後、縁側に座っていると、どこからともなく、心地いいそよ風が顔の表面を撫でいってくれる。このとき、まったく時間は止まってしまい、いま、ここに、自分は在って、そよ風がからだを包み、気持ちよさだけがそこにある。そういった中で身も心もその空間に溶け込んでしまう。これこそが『快』の感覚というものだ。このように快と楽の比較は社会通念上の常識的な範囲内に納まってしまう。しかし、これではここで話が終わってしまう、そこで、操体の自然法則に快と楽の感覚論を交えてこのテーマを展開していきたい。
操体では「同時相関相補連動性」という教えがある。その原理を健康面に応用したものが「息・食・動・想」という自然の法則である。現在ではこれに「皮膚」を加えて「息・食・動・皮膚」の肉体原理と心の原理として「想念」という身心相乗の原理に立っているのが「現代操体」と言えるものだ。
おおよそ病気と名のつくものの原因は、血液の質の低下という血の汚れと、血液循環が停滞する血のめぐりが悪いことに尽きる。しかるに血質を上げて血循をつければ、あらゆる病患は消滅するほかはないのである。血質と血循の関係も相乗の原理に立つもので同時相関相補連動性に適うものである。
たとえば呼吸が浅く、食物が不適切であると、血質が落ち、必ず血循も悪くなる。何故なら血が汚れて粘りっぽくなってくるからである。また、皮膚が弱く、ボディに歪みがあると、血循が落ち、必ず血質が悪くなる。これは血がよどんで腐敗するからだ。こんな状態に陥った血液にも酸素が十分に入ってくると、粘った血がたちまちサラサラとしたよい血になる。それに野菜などのアルカリ性の食べ物が加わると、黒っぽくよどんでしまった血がたちまち鮮やかな赤味を帯びた血になる。ゆえに血質を上げるには、呼吸と食事との二つを相乗させていかなければならない。
同じように血循をよくするには、必ず皮膚とボディの歪みの調整が不可欠である。皮膚が弱くなると血の流れが悪くなり、筋肉にコリができて骨格が歪んでくると、血の流れが悪くなる。皮膚が健全だと血の流れもよくなり、またボディの歪みを整えても血の流れがよくなる。血液循環もまた皮膚とボディの歪みを整えることを相乗させなければならないのである。長期間にわたり血がよどんで滞り続けていると、癌などの腫瘍ができる。これを治すには、その部分に血循をつけることに尽きる。その腫瘍部に、皮膚からの血流と筋骨からの血流とを相乗的に喚起せねばならないということである。呼吸と食事は血の質をよくし、皮膚と筋骨の自然な使い方、動かし方は血の流れをよくする。血の質と血の流れはまさに同時相関相補連動性の関係が成立する。
こういった血の質と血の流れを感覚的に表現すると、血の質は「快」の質に比例し、血の流れは「楽」に反比例する。言い方を変えると、快の質が高く、その感覚を味わうことが出来れば、血の質も良くなり、血の流れも良くなるということだ。一方、「楽」には節度というものが必要になってくる。調子に乗っていつも楽ばかりを求めていると、その反動で逆に「苦」を味わうことになる。「苦楽」というのは、親密な関係性におけるバランスをとっている。一方に傾くと、必ずもう一方に傾かなければならないのである。サーカスの綱渡りで左右にバランスをとっている棒のようなものだ。左側の極端にいくとき、もう一つの極端である右側にいく準備をしているのである。同じように、「楽」という名の極端に進むとき、実はもう一方の「苦」という極端に進むための準備をしているということだ。このように楽というのは、十分に心して意識的であらねばならない。これに対して快は、からだの無意識に委ねることにより、その感覚が自然の法則へと誘ってくれる。このように快感覚は自然の法則という真に理に適った在りかへと導くことができる、神秘的とも思える妙法なのである。
巷に健康法は数多くある。しかしながら、この「息・食・動・皮膚」を正しく伝えたものはないように見える。多くの健康法を次々に実行しても一向に効果が上がらないのは、これらの原理が揃っておらず、その上、相乗の原理を把握させていないからだとしか思えてならない。

明日からは、息・食・動・皮膚・想と環境がそれぞれ持っている快と楽について、日替わりでブログを進めたい。



2011年秋季東京操体フォーラムは11月6日(日)、東京千駄ヶ谷津田ホールにて開催予定です。