『操体』を、そして『操体法』を学んでみようとするなら、ポイントはいくつかある。
そもそも、本来競争して一番を決めるようなものじゃないってこと。
『操体』は「何でも受け入れることのできる、大きな器である」と知り、
三浦理事長はそれを捉えて、
『操体』は「なんでも入れて、生かすことのできる大きな器である」という。
ワタシの目的もここに繋がっていることを追究している。
人間以外の生き物は、遊ぶこともほとんどない。
遊んでいるように思えても、それは生き抜くための手段の一部で純粋に遊んでいるわけじゃない。
ただ、カラスは特殊で遊びの意味を知っている希有な動物という説もある。
そう考えてみれば、『烏合の衆』という意味は不自然で、カラスのように規律も規制もなく、
ただ、集まっているだけのうるさい様子を表現している比喩は不自然であろう。
この比喩自体も、カラスの研究によると不自然であると証明された。
実は烏(カラス)とは、仲間の声と姿を判別して学習し、同じ仲間でこそ呼応する。
その実験では普段から一緒にいるカラスを捕まえてきて籠に入れ、網越しに対面させた後カーテンで仕切り、
そのうちの一羽を取り去った後、録音してあった数種類のカラスの鳴き声を聞かせると・・・、
全く反応しない鳴声と、カーテン越しに何とか姿を見届けようととする鳴声があり、後者は勿論仲間のカラスなのだ。
橋本敬三先生は生前、”ずるいカラスの野次馬になれ”と言っていた。
ずるいカラスの野次馬。その意識とは別の意味となり、自分自身を捉えなおすことに繋がってくるだろう。
間にあっていればいい。その意味も絡め、改めて深い意味を感じて欲しい。
なぜなら、怪訝さを感じ取る原始感覚とは自分の内にあるのだから・・・。
花は、なぜ美しいのか? それは、やっぱり理屈じゃない。
美しいと感じる何かであって、花にも個性はあり、咲いて花にも理由はある。
今は『操体法』の代名詞となった、「快をとおす」「気持ちのよさがあればいい」
『快』にも理由はあって、それこそ”何でも乗せる”ってわけじゃない。
『快』にもちゃんとルールはあって、「きもちがいい」ってことをわかるようになってる。
かといって、決して窮屈じゃない、そこまで知ること。
感じ取りながらバランス取っていけるように、ホントに上手にできているってこと。
学び続けるコツの一つ、”遊び”と言う意識のエネルギー。
遊びの意識、このエネルギーこそ、橋本敬三先生の話していた”カラスの野次馬”だろう。
「続けていく」だけでなく、操体をワタシの命に繋げてくれる。
命につながるってコトは、それだけで絶対的安心感となる。
これを感じて更に愉快になってくると、自分の本質につながって『操体』はより自分自身に繋がってくる。
だ・か・ら、有り難いんだナ〜と、実感するのだ。
しかも先には先があり、極まらない・・・やっぱり、ワケがあるんだナ操体には。
岡村郁生
2012年春季東京操体フォーラム研究会は4月22日(日)東京千駄ヶ谷津田ホールで開催致します。
根っこをみれば繋がってくるよ、と植物は教えてくれる。