もう無いだろう。
もう無いだろうと、もう無いだろうなと・・思いつつ反復を繰り返しているとまだまだある。
純粋に仕事の愉しさがわかってくるのは、20年、30年やっていてわかってくる。
仕事の大局観がみえてこないとその愉しさはわからない。大局観がわかりはじめるとひとつひとつの事象がつながってくる。芋づる式に繋がって理解できてくる。すると、妥協できなくなる。わかった先にまだ未知がある。わからないことがあると思うのだ。わかっていないことがわかってくる。わからないことは知ったかぶりができない。少しでも理解したいと思う。知りたいと思う。そして私は心の中で、尽くしたいもののために尽くせることを願っている。そこに人が人である理由がある。それは心にある。そして人は人の心に触れることによって進むべき道を見つける。進むべき道とは、使命観である。自分を遠ざけてしまうほどの使命観である。
進むべき道を与えて下さった師に、私は尽くしたい。尽くしきれないものを、作品にかえてお返ししたいと思う。
私は師の心に触れて進むべき道を拾わせていただいたのである。
晩年、師は「もうワシには残された時間がない」と口にされた。ならば弟子の私はその師の残された時間を引き継いで行けばいいのだと、師が成しとげられたことは見せて下さっただから、なぞりながら越えて行けばいいが、成さんとしてきたことへの継承を、引き継ぐ、引き継いでいくことも弟子の宿題であり使命である。だからこそ、自己満足しては妥協できないのである。そこに、また操体の愉しさがあり、興味のつきぬ愉しさがある。
因縁の連環。師から私に生涯の学問をいただいた。師へ、亡き後も因縁は続き、師と私との連環から多くの弟子が育っていくことになる。人を育てるという大切な自分の連環があった