東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

神経症14

 原始的な苦痛の底流には、生き延びようとする生命の要求が横たわっている。小さな子どもは両親を喜ばすために、やらなければならないことを行なう。あるクライエントはその点について語った。「私は自分自身から自分を取り除いてしまった。私は自分を殺した。なぜなら私は気性が荒っぽくて手がつけられず、心も騒がしいのに、両親はおとなしくデリケートであることを望んでいたからだ。こんな不自然な気違いじみた両親と一緒に生きていくためには、自分自身を追い払わなければならなかった。しかし私はかけがえのない自分を殺してしまった。それは割の合う取引ではなかった。しかしそうするしかなかった」と。

 我々は統合された存在であり、現実の自己はたえず表面に立ち現われ、精神的な結合をしようとする。仮に本来の性質をすべて持ち備えていたいとするやみがたい要求がないならば、現実の自己を永久に退けておくことも出来よう。それは我々自身の内部におとなしくとどまり、我々の行動の中に割り込んでこようとは一切しないはずである。神経症の人間を駆り立てている要求は、ふたたびすべてを備えた人間に、すなわち本来の自分に立ち帰ろうとする要求である。非現実の自己は障害であり敵であって、最終的には破壊しなければならないものである。

 原始的な苦痛の最も重要な一面は、それが始まったその日のままの強さを持って内部に閉じ込められていることである。それは当人のいかなる生活環境や経験によっても、触れられることはない。50歳になるクライエントたちが45年以上も前に受けた小さなときの痛みを、あたかも現に経験しているような破壊的な強度をもって始めて経験する。その苦痛が全面的に経験された例は、それまで一度もなかった。その全面的な衝撃を感じそうになると、それは食い止められ、押し隠された。しかし苦痛は非常に忍耐強い。それは毎日の生活の中で、自らの存在を主張するために、我々の注意をひこうとする。しかし滅多に解放を求めて叫んだりすることはしない。苦痛が人格体系のなかに織り込まれてしまい、感じとられることがなく、ほとんど認識されることもない方が多い。

 そのとき神経症的な体系は、苦痛を無意識な行動にすり替えてしまう。それは実に自動的に行われる。認識されるかどうかに関わりなく、苦痛は何らかの吐け口を持たずにはおれないからである。吐け口は「私につらくあたらないで」と訴えかけるようにいつも微笑みを絶やさない形をとって、「私の世話を看てください」と要求する肉体的な病気の形をとる。あるいは、「私に注意を払ってください、お父さん!」というために、社会的な集まりの席で声高に行動するとか、立派に振る舞ったりする。

 しかしどんな社会的な地位に就いていようと、どれほど謹厳で「成熟」した人格者であろうとも、少しばかり引っ掻くと、その装いの下から傷ついた子どもが顔を覗かせるのが確実に見てとれる。原始的な苦痛の経験とは、ただ単に苦痛について知ることではないことを、理解しなければならない。それは苦行と化すことである。我々は精神物理的な存在であるので、その統合を分離するいかなるアプローチも成功できるはずがない。神経症は感情の病気でもなければ精神の病気でもない、それは間違いなく両方の病気である。そして本来の自分を全部取りもどすには、その分裂を感じとり、認識し、人間をふたたび統合する結合を声に出して叫ぶことが必要である。それにはカタルシス、すなわち浄化作用を必要とするのだ。逆説的ではあるが、分裂を強く感じるほど、統合をもたらす経験はいっそう強烈で本質的なものとなりうる。
次回につづく、かも?


2014年4月27(日)
東京操体フォーラムが開催決定!
会場は東京千駄ヶ谷津田ホールです。

「入眠儀式 快眠・快醒のコツのコツ」
是非お越し下さい。

http://www.tokyo-sotai.com/?page_id=644