つづき
蜜を集める蜜蜂について、二番目に理解しなければならないこと。 タントラはそれを存在の構造化されていない状態、様式化されていない状態だという。 もし我々が習慣に従って生きるなら、その習慣は過ぎ去ったものに属しているのだから、人生を楽しむことなどできない。
我々がなぜ人生を楽しむことはできないのか。 だって、同じことを何度も何度も繰り返し楽しむことなんてどうしてできる? 我々の頭は同じままであり、その結果として退屈がある。 我々の婚姻制度では、法による離婚や再婚の規定があり、女性を、あるいは男性を変える事なら自由にできる。 だが、自分自身は同じままだ。 ということは、半分はいつも同じということになるが、これでは本当にうんざりするだろう。
だから、タントラはこう教える ― 、どんな人にも執着せずに、人間としてあることの感性の自由を持続させなさい、と。 さらにタントラは言う ― 、自分の過去から自由でいなさい、と。 そうすれば、蜜蜂のように自由になって、無限のセンスに導きかれたままどこまででも飛んでゆける。 引き止めるものは何もない、我々の自由は完璧だ。
過去のパターンに固執しないで、創意に富むよう努力し、いつも革新的にあるべきだ! アドベンチャー、や発見者でいること。 新しいやり方で人生を楽しむ、あるいは楽しむための新しい道を見つけることである。 そこには無限の可能性がある。
蜜という言葉でタントラが意味しているのは、すべてを含む全体という「神」についての詩的な隠喩であって、存在それぞれが神性をたずさえているというメタファーだ。 神がいないところなどどこにもない。 我々のまわりには神しかいない! 木の中、鳥の中、動物の中、川の中、山の中、男性の中、女性の中・・・・・・あらゆるところに神が存在している。
我々を取りまくために、我々のまわりで踊るために、神は非常に多くの形をとってきた。 あらゆるところから神は言葉をかけている。 「こんにちは!」 ところが我々は聴かない。 神はあらゆるところから我々を呼んでいる。 あらゆるところから神は我々を招いている。 「私のもとへいらっしゃい!」 だが我々は、どうしたわけか目を閉じたまま、どこも見ない。
ただし、神は人間製ではないので、人間の作ったものにはいない。 人間の作ったものはその中には含まれていない。 神はお金の中にはいないし、権力の中にもいない、また政治の中にもいないし、野心の中にもいない。 これら以外のところすべてに神はいつもいる。
我々はあまりにも多くの人間製品に取りかこまれているために、これは現代の世界で最も難しいことのひとつになってしまった。 我々にはその真相が見えないままでいる。 いや、それらを見る感性を失ってしまった。
つづく