東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

操体と操体法の違い

数ある治療法、手技療法の中でも、操体法は特殊なポジションにある。人間の考えが変わろうが、この社会が変わろうが、絶対不変の自然法則というものが存在し、人はその法則に生かされている。その人は、その法則に生かされている。そして、我々の生命現象は、快に従うものである。生命現象は快に向かう、それが、イノチの正しい方向性である、という事実の元に成り立っているということだ。橋本敬三医師の生き方、哲学までを含めたものを操体、と呼び、その中で臨床の部分を操体法、と呼んで区別している。橋本先生ご自身も、明確に区別されていたという。
「私は、操体法をやっています」という場合と、「私は、操体を学んでいます」という場合は、明らかにその意味が違うことを覚えておいてほしい。


★他の手技療法との違い・自力自療
操体が他の手技療法と違うところといえば、『自力自療』を明確に打ち出しているところである。他力療法でも名人達人はこれに気がついているのだろうが、多くはそうではないだろう。


一般に他力療法と呼ばれるものは、まず治療者と患者(施す側と受ける側)が存在する。双方とも最終的には、本人の自己治癒力を高めるものであるが、
他力療法には、
・治療者が、診断しなければならない
・治療者が、治療法、やり方の選択をしなければならない
・治療者が、治療行為、施術行為を行わなければならない
という義務がある。つまり、治療者の手腕にかかってくるのである。
名人、達人たる所以である。操体法においては、
・本人が診断する(感覚は本人にしかわからない。その感覚をききわける)
・本人が治療者である(ききわけた、気持ちよさを味わう、という自己責任分担を果す)
というプロセスをとる。
つまり、「先生がやってくれる、治してくれる」という治療行為の場で成り立っているのではない。
操体法は、感覚をききわけ、味わうという自己責任分担を患者(受け手)に課している。
治りたい、良くなりたいという、自己の欲求(要求)があるのであれば、最小限の自己責任分担は果たすことである。何故なら、己の生き方の中で病を造り出しているからなのである、自己の責任生活、そのものが健康のバロメーターなのだ。悪くしたのは自分自身にあるのですから、というスタンスをとる。また、健康傾斜の度合も個人差がある。
間に合っている人は自分で日々のケアを行えばいい。しかし、間に合っていない人には、プロの手助けが必要である。


★いよいよ明日明後日で私の担当も終わりになるが、明日は昨年秋のフォーラムで配布した、「VisionS」から、『仙台道中記』を転載したいと思う。
★「VisionS」というのは「Vision of SOTAI」と「Vision」の複数形をあらわしている。ちなみに「ヴィジョン・エス」と読む。
何故かというと、今読み返しても結構可笑しいから。
フォーラムに参加した方は、登場人物の顔を思い浮かべながら読んでいただきたい(笑)



畠山裕美