皆さんは学生時代に歴史の授業は好きだったですか?歴史と言っても、古代もあれば現代史も有るので非常に幅が広くなりますが、人によって好きな時代って違うと思います。
数日前のブログに書いた佐伯理事などは完全な古代史マニアですし、他の実行委員の中にも色々な時代のマニアが存在しています。
今日の話をするにはこの前振りが必要なので、話しておりますが、要はどの時代に自分自身が惹かれるかというのが、自らが生きて来た過去の証でも有り、(以前、Vision Sでも書いた記憶がありますが・・・)俗に言われる『生まれ変わり』における記憶だったりするのです。
この手の話は拒絶反応を示す方と逆に異常な位に同調・反応する方がいらっしゃるので、あくまでも福田の戯言(たわごと)として聞き流すなり、聞いてみて下さい、但しこの事を頭の隅においた上で臨床をしますと新たな発見、気付きが有り、特に『第三分析』をクライアントに試みていきますとより明確に感覚としてとらえられる事がありますので、又、皆さんも研究課題にしてみて下さい。
私は小学生の頃から父の影響も有り、日本史に興味を持つ様になりました。最初の頃は在り来りに“織田信長”すげぇ〜っ!から始まり、中高生の頃にはやや熱も冷め、大河ドラマなどは殆ど見ることもなく過ごしていました。
そんな私に再度、歴史マニアの火を付けてしまったのが、1985年から始まった、『日本テレビ年末時代劇スペシャル』でした。
12月30日と31日という当時では考えられない紅白の裏番組としてスタートしたこの企画は、異例の高視聴率を収めた番組となりました。
“白虎隊”、“田原坂”、“五稜郭”など当時の時代劇には珍しく幕末物を多く取り上げた番組としても有名で、里見浩太朗 大先生の独壇場と言った感じでは有りましたが・・・
そんな作品群の中で、地味ながら私が釘付けになり、今に至っても憧れの存在としてRespectしている人物を取り上げたのが、松平健 将軍様、主演で制作された『奇兵隊』です。
里見浩太朗大先生以外を主人公においたということで、賛否両論有ったようですが、私にしてみりゃ、どっちが演っても晋作の実像(痩せ形)とはほど遠いので、どちらでも良いんですけど・・・
この作品の主人公だったのが、私が敬愛して止まない『高杉晋作』です。幕末が好きという方々の中でもこの高杉晋作を挙げる人も少なくないと思います。
最大の魅力はその人間性?に有る様な気がします、とにかく破天荒な人で、いわゆる今の腐敗政治家の人々が束になって掛かっていっても叶わない位、藩の公金を使った、“飲む・打つ・買う”いずれも半端ではない、三拍子が揃った人物でした。
上海に渡航するために藩から預かった渡航費用を数ヶ月で使い込んだり、藩に無断で高額の軍船を購入したり、愛人を連れて逃避行をしたり、などなど、挙げればきりがない位にお金にも女性にも“ルーズ”なお方でした。
一方で戦術に関しては天才的とでもいうべき閃きをもっていて、日本初?とでもいうべき一般人参加の軍隊“奇兵隊”を創設、指揮し幕府が倒れる切っ掛けを作ったまさに軍事の天才でした。
このテレビドラマを見た時の率直な感想としては、何故か違和感をもったのと同時に、懐かしさの様なモノを感じたのを覚えています。ドラマをみて突き動かされる様に、高杉晋作の生誕地でもある“山口県萩市”へと正月明けに向かいました。
晋作の自宅やら松下村塾、松陰神社など在り来りの観光コースを一通り廻って帰路につきました。何だか満足した気持ちで帰ったのを今でも覚えています。
ほぼ数年おきに気がつけば萩にはそれから行く様になっていました。特に大きな理由はなく、行かなきゃいけないから行くみたいな衝動に突き動かされ、現在まで続いています。
そんな私に大きな変化があったのは、操体を知ってからはじめて、下関の晋作の墓参りに行った時でした。下関に向かう際に何気にその時は普段と違う道を走っていました。
クネクネとカーブの多い道で「変な道を通ったなぁ」などと思っていたら、急に左頸部の辺りに刺す様な痛みを感じ、車の運転すらしんどい位になりました。
以前から私はこの左頸部に違和感を覚えることがあり、その時はハッキリと普段痛み出す場所が強烈に痛んでいるのを自覚しました。
暫く車を停めて痛みが治まるのを待って、再度、車を走らせました。暫く走っていて気が付いたのはこの辺りは古戦場であったということでした。“太田・絵堂の戦い”という歴史の教科書になんぞ出てもいない幕末の頃の戦いですが、奇兵隊にとっては重要な戦でした。
その時の意味も解らないまま時が経ち、昨年、嫁と一緒に再度、下関に向かう時にもやはり同じ場所で同じ様な痛みに襲われ、その時、嫁にハッキリと『あ!俺ここで死んだんだ』と言いました。
当然のことながら嫁は「???」という顔をして不思議そうに私を見ていましたが、それまでの経緯を話すと、何となく納得した様な顔をして何にも言いませんでした。
この件に関しては後日、その筋のお方にお話を伺ったところ、過去にあなたはその場所で亡くなっていますよと言われました。「多分、流れ弾か何かが左頸部にあたり落命してます」とのことでした。
前世において、自身が戦死した近くを通ることで、その時の私の身体の記憶が共鳴し蘇るのだそうです。
以前、三浦理事長が“皮膚は人間の記憶媒体だ”と言われたことがありました。人間の皮膚にはその人の過去の病歴やら何やらの記憶情報が沢山蓄積されているのだと。
私自身も頸部の痛みが自覚される様になった時期は操体の中で『第三分析』を私自身が意識し始め、臨床で使う様になった頃でもありました。
“原始感覚”とは人間が本来もっていた感覚であり、我々の祖先であった人々も当然持っていたであろうと思いますし、昔は今とは違い“命”の危険に日々晒(さら)されながらの生活であり、現代人とは比較にならないほどこの“感覚器”が発達していたと思われます。
『視覚・聴覚・味覚・触覚・嗅覚』は元より『予感・霊感』といった様な第六感にいたるまで意識することなく発揮出来ていたのだと思います。
それが生活環境の変化により“身の安全”が確保され、徐々に繊細な感覚は薄れ、生活に必要な感覚だけが薄く残っていったのだと思います。
私がこの経験で感じたのは、原始感覚が蘇るということは様々な身体の“深層記憶”を呼び覚ますのだということでした。それは“深層思念”にも繋がり、過去に生きていた記憶や思いをもフィードバックしていくのだと感じました。
そう考えていくと、“皮膚”とは人間の感覚器官の中でも無限の可能性を秘めた、“Black Box”であり、更に感度を高めていくことで、我々の祖先が持っていたであろう、眠っていた感覚器を目醒めさせることが出来るのではと思いました。
そう考えていくと私の過去へのフラッシュ・バックの様な感覚も理解出来ますし、臨床の際のクライアントが呼び覚ます無意識の動きからの“自然治癒力”の高まりも我々の祖先に身体が近づいてきているのだと。
“記 憶”とは過去から現在への架け橋であり、身体が治っていくプロセスとはまさに過去の身体へのアプローチであり、身体の本質である無意識への問いかけをすることが、人間の一つ一つの細胞の治癒プロセスの核心に迫るのだと。
惹かれる場所・・・惹かれる時代・・・惹かれる人物・・・惹かれる色、などなど、惹かれるのには意味があり、ひょっとしたら、そこには身体の中に記憶の断片があり、それが影響しているのかもしれません。そう思うと又、違った風景が見えて来るかもしれません・・・
福田勇治
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