東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

原初からの解放(二日目)

前日のつづき
かわいそうな赤ん坊は、このような西洋医学の産科学に基づいた安心、安全な出産というものに委ねられることになる。それは母子みずからの陣痛を待たないで、薬剤の力を借りて収縮を誘発することにより、多くの赤ん坊が医師や病院のスケジュールに従って取りあげられている。母体や胎児のからだの有機的なタイミングには何の意味もないかのように扱われているのだ。そして胎児はつねにモニターされ、生命活動標準数値が外れようものなら、さらなる介入が行われる。西洋医学にとっては完璧で安全な環境かもしれないけれど、子宮の中で10か月も過ごした胎児を出迎えるやり方としては、ばかばかしいほど非人間的であると、言わねばならない。
この産科学の最大の遇行は、ヘソの緒を早く切ってしまうことにある。子宮を出て最初に行われる呼吸はもっとも基本的な意味で個の自律的存在として自らを確立することである。自力で呼吸するというのは、本当の意味で自由に生きるための第一歩である。新生児の脳にとっては一定量の酸素がつねに確実に供給されなければならない。母体につながったヘソの緒による呼吸から肺呼吸への移行はスムーズに途切れることなく行われなければ酸素欠乏に陥ってしまう。酸素欠乏はのちに重大な心身への悪影響を及ぼすことになる。もっとよく注意して観察して欲しい、大いなる自然はヘソの緒から肺への呼吸の移行を十分すぎるほど保護してくれている。赤ん坊が生まれたあとも数分間は酸素を送り続けているのだ。新生児自身が肺で呼吸できることを発見し、時間をかけて少しずつ試み、やがて完全な肺呼吸を覚えて確立するまでヘソの緒は脈打ちつづけ、酸素を送り続けるのである。それが必要なくなったとき、はじめて機能を停止する。実を言うと赤ん坊がみずからヘソの緒を切るようなものなのだ。このように準備ができたら、ちゃんと母親から離れていくことができる。
病院の都合によるスケジュール出産を思い浮かべると涙があふれてくる。無理矢理ヘソの緒を切られて一時呼吸が止まってしまう、酸素の供給が突然ストップするのだ。さし迫る生命の危険、死がすぐそこまで来ているのにどうすることもできない赤ん坊、パニックが起こる! すると突然、赤ん坊は踵をつかまれて乱暴に逆さに吊るされ、背中を思いっきりどやされる。背中をどやされた赤ん坊は、暴力をふるう手から逃れようと本能的にからだを縮めてしまう。恥ずかしさ、怒り、憎しみの入り交じった最悪の気分から逃れようと感情的にも収縮し、さらに、心理面でも退却してできるだけ小さくなり、自分の内部に身を隠す手段として呼吸を抑えることになる。瞬時に自動的に、これだけのことをやっているのだ、ほかに対応のしようがないからである。ああ、もはや首をふって嘆息するしかない、そして産声を上げると、元気な赤ん坊だと言って騒ぎ立てる。誕生は野蛮で不合理な拷問、この世の暴力への入門式となってしまった。肺呼吸の仕方を学んだことが、人生でもっとも深く傷つけられた出来事になるとは・・・・・・。

幸いなことにフランスの産科医フレデリック・ルボワイエールが開発した分娩法によってこれらの原初的な苦痛を避けることが可能になった。が、我が国においては未だ改善が見られない。F・ルボワイエール著『暴力なき出産』松村博雄訳(KKベストセラーズ、1976年)他にトマス・バーニー著『胎児は見ている―最新医学が証した神秘の胎内生活』小林登訳(祥伝社、1987年)、デーヴィッド・チェンバレン著『誕生を記憶する子どもたち』片山洋子訳(春秋社、1991年)の一読を勧める。
明日につづく