東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

他力と自力

(自力本願・・・他力本願・・・)

患者さんに教えて頂く事は多い。
臨床家にとって必要な・・・というより、人間として必要なことは「謙虚」であること。

「生かされている」という、自然法則の基本、恵まれている事を忘れている。
操体に限らず、すべての臨床はここから始まってここに終わる。
昔はわからなかったことを知り、そう思っていたが、最近ではお陰様でそのように感じられる。

それが不思議でなくなってくる過程の一つに、
「可視」から「不可視」の変化を感じとること。

「謙虚」と「感謝」は陰と陽の如く、二つで一つではなく、無限になる。

操体を”学び続けていれば”わかることは多い。
これを理解しないで、治療法の一つに並列しては勿体ない。

〜〜臨時ニュースです〜〜
オラ!オンブレ・オカムラです。
サア気になって仕方ないあなた!
今月13日の「臨床家による操体セミナー」に参加して見るのは勿論、
講習会を受けての声、東京操体フォーラムの活動をこの後チェック!、
オンブレも参加しますよ〜。
〜〜ニュース終了〜〜

第二分析以降の「操体法」ではより鮮明に、「イノチ」の営みを感じる。
「動診」で問いかけて「からだ」に教えてもらえるのは、本当に不思議なこと。

操者側にある問題とは、「意識の変化」。
「気持ちのよさで治るんだ」これを実際に感じてを生じなくては、
「快の質」に臨床でも大きな差が生じてくる。

患者さんは私でもある。

自力とは他力との納まりにある。

お互いに穏やかになり、気がつかなかったことを指摘してもらえたり、
生活する糧を頂いて、お礼までしてもらえる。

どんなに頭が良くても、お金持ちになっても、素晴らしい仕事が出来ていても、人のことをバカにする人は悲しい。
なぜなら、なんで治るのか?なぜ成功したのか?そもそも自分の存在を、学びにフィードバックしていない。

自然の一部である「からだ」を忘れてしまっている。
神仏に、祖先に、自分に頂いた役割を忘れているのだろう。

他人にも、自分にも、同じ事がいえる。

僕はここが随分足りなかった。
操体」を学ばせて頂くことで様々な悩みが丸く納まっていくのは、無理しないで納得できるからなのだ。

ききわけてみると、私達を見守ってくれているのが、実は患者でもある。と、「からだ」に教えてもらう。


(つながっていくイノチ)

例えば開業以来、公私を超えて支えて頂いているのは、Nさん。
一昨年から更に、私自身の臨床変化により、今までなかった関係になっています。

それは、Nさんと書籍交換であったり、今に対して感じたこと、考えていることを率直に語り合うのです。
色々お借りしましたが、その中でも・・・
「岡村さんに読んでもらいたいのは、自力と他力についてのところなんだけど・・・」
と、言われ読んでいるうちに引き込まれました。ありがとうございます。

「運命の足音」〜五木寛之著〜・・・これは響きました。心にくさびのような重いものを感じました。

五木氏のことは個性的で有名なので、ご存じの方も多いと思います。
これは「大河の一滴」と同じように小説ではありません。それは、五木氏が満州にいた少年時代の出来事がメインなのです。

本人が否応なしに、戦後の満州で実際に経験し、自分を徹底的に俯瞰して見つめていたことに苦しみ抜いたあげく、
過去に幼かった時に感じてしまった、一つではない意識。
ありのままの姿をただ、見つめ、正面から向き合い、決心から始まった現在を、
忘れられないことを、生々しく喉元に昇ってくるような文章で書かれています。

若い略奪者に胸を踏まれた病に倒れている母親、しかしそれさえも「赦しなさい」という声の実感として共感する意味。
年を重ねていく強さとは、生き抜いていく弱さの裏返しであることを感じました。
ある年齢になるまで、今まで書くことができなかった、思い出したくなかった事を、
簡易な文章に淡々と綴られているのですが、母親、父親、そして現地のこと、自分の見てきたこと。
その想いを書かれています。そして五木氏が仏教に興味を抱き、傾倒していくきっかけも述べています。

なかでも「和魂洋才」の勧めは、なにかと「洋魂洋才」に傾きがちな私達に警鐘をを鳴らしています。


大きな流れを感じていれば、”縁”はつながりあうのでしょう。
つい先日、平直行相談役から一冊の本の推薦がありまして、早速取り寄せて(便利な世の中です)拝読しました。

「たった独りの引き揚げ隊」〜石村博子著〜・・・これは私に響きました。意識に重さと軽さを巡るような感じでした。

満州で日露ハーフの古賀氏に起こった戦後のこと、幼かったビクトル古賀氏の見てきたこと、体験したこと、感じたこと。
その本質を見つめて生き抜く姿は、まるで悲壮感がなく、大きな自然のなかで祝福を感じて生きているように思えるのです。

私は感想文を書くつもりはありませんし(amazonときいてギギの腕輪と解く、その心は?)内容についても詳しくは述べません。
しかし、なんというか、とてつもない意識の変換を迫られたのです。 そこに救いはあります。
亡くなった者は天を仰ぎ見るように手を開き・・・。それをうつぶせに弔うのに何が必要なのだろう。
「イノチ」に感謝する姿勢、アミニズムとも感じられる、少年古賀氏の繊細なる信仰観。
繊細であるからこその大胆。その移動距離に比例するような行動はあまりにも美しい。
自然崇拝とは法則性にかなう者を祝福しているのだろうか・・・。偉業を成し遂げる法則を垣間見たように思える。
略奪行為の末殺された者、それを笑って蹴飛ばす感覚。それを受け入れてなお生き抜く剛胆な優しさ。

生きていることには、理由がいらない。生かされている理由があるのだから。

そんなことを「からだ」をとおして教えてくれるのです。
わかってしまえば、特別な準備は要らないのかもしれませんね。

戦争の生み出す人間の「心」という、選択される残虐性に興味があり、惹かれている私もいる。
その理由は、
何故か・・・何かつかみきれませんが、私を”確実に救ってくれる”のです。
勿論、一般的には逆の印象(不快)を感じるのかもしれませんが、
変なこと書きますが、何故か、自分が関与している気がするのです。
正確には言えません。ただ、自分が関与する宿題のようにも感じるのです。

どうしてなんだろう?
人ごとに思えないのです。「理由なき反抗」ではなく、理由なき肯定なのです。

だから、操体を学ばせて頂いているんだろうな・・・。
これからも、確実に、僕は学んでいく必要があり、その一瞬に祝福を感じるんです。

それがなんであるのか、言葉にできないのが煩わしいのです。

この僕の心にあり、渦巻いている「何か」とはなんだろう。
それは消え去る喜びではなく、本来持っている幸せなのだ・・・と、今は感じます。ありがとうございます。


岡村郁生


6月13日、行徳ゴールドジムにて第四回「臨床家による操体セミナー」開催
8月28、29日は大徳寺玉林院にて「東京操体フォーラム in 京都」開催
9月18、19日スペイン、マドリードにて「操体セミナー in スペイン」開催