東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

昨日の記事から。


昨日の記事のなかで、NHKラジオ放送人生読本「人間の設計」のなかの一文をお借りして掲載しておりましたが、お借りする上で、改めて3日間全部の収録したものを読み返してみたのですが、「楽」という言葉は一言も出てきていませんでした。
この放送の収録が行われる時には、操体法という名称はなく、ラジオ放送に出る手前、なにか名称がなければ不都合と言うことで、操体法という名前が出来たと聞いたことがありますが、操体法という名前を使って、はじめて一般公開した話の中に、「楽」という言葉がでてこないで、「気持ちよさ」「気持ちいい」という言葉がしつこいぐらいにでてくるということは、操体法は「楽」か「ツライ」かではなく、気持ちよさなんだと、その方向性と真髄を示しているように感じられます。
操体法の創始者である橋本敬三先生は、操体法として世に出すとき、「楽」とは決別して世に送り出したのだと思います。
このラジオ放送の収録が行われたのが昭和56年(1981年)ですから、翌年(1982年)には、「きもちのよさをききわければいいんだ、きもちのよさで治るんだからな。」と断言するかのごとく話されていたといいます。
気持ちよさを何にききわけるかというと、太極の意志が貫通し、見返りを求めることなく粛々とその理念を全うしている、からだであり、理屈や知識で判断し、損得勘定という合理性に向いたアタマではないと思います。
「損」か「得」かと「楽」か「ツライ」かは、何だか似ているような気がします。同じではないですが、これらのききわけに「太極(神様)」の理念の存在があるのかということです。私はこれらのききわけは、自分を中心としたアタマの思考による判断の産物のように思えます。
これに対して、「快」「気持ちよさ」はアタマの枠を超えた、親の親(神様)の「ちゃんとみんなに愉楽しんでもらってね、それで一生気持ちよく生きてくれればいい」という宇宙規模の親心であり、宇宙規模の親心の内にはそれを満たすための自然法則(理屈を超えた決まりごと)があり、その自然法則に順応する為に「快」か「不快」かという原始感覚が人間には備わっており、「気持ちのいい」ことをすれば良いということが成り立ってきます。
しかし、人間は社会が発展、複雑化する中でアタマの知識もどんどん発達し、原始感覚という勘、直感が鈍ってきてしまいました。
だから、「気持ちよさ」を太極の意志が貫通している「からだ」に感(勘)じ、「からだ」の要求感覚を満たしているのかという、「気持ちよさ」の質をききわけ、ききわけた「気持ちよさ」に従い、味わうということが、とことん理に適っていることであり、とことんありがたくできていることなのだと、理解していただけると思います。
東京操体フォーラムの理事長である三浦寛先生が、弟子入りした頃は、操体法という名称はなく、「名称なんかどうでもいい、真理が大切なんだ」と名称がないことを橋本先生は意に介してなかったといいます。
それでも操体法として世に出す時、真理を伝える意味もこめて、「気持ちよさ」としつこいぐらいに繰り返していたのだと思います。
三浦先生は、「きもちのよさをききわければいいんだ、きもちのよさで治るんだからな。」と橋本先生から断言するかのごとく話していただいたことから、「操体操体にあらず快にある、操体臨床の真の意は、快適感覚そのものの内にある」ということを学ばれたといいます。
ですから、操体は日々、年々発展、進化をしております。

東京操体フォーラムはその公開の場でもありますが、今年は関西では初の京都、大徳寺で行われたり、スペインのマドリードで行われたり、秋は定番となりつつある千駄ヶ谷の津田ホールで行われます。
「ちゃんとみんなに愉楽しんでもらってね、それで一生気持ちよく生きてくれればいい」という親心と一体となり、地方、民族を問わず、みんなに愉楽しんでいただけるよう、みんなに気持ちよく生きていただけるようにと願いながら、自然法則の応用貢献に励んだ成果を、出し惜しみなく公開しておりますので、興味がある方は是非、参加してみてください。



友松誠



8月28、29日は大徳寺玉林院にて「東京操体フォーラム in 京都」開催

9月18、19日スペイン、マドリードにて「操体フォーラム in マドリード」開催