昨日の話の中で、「のる」とか「そる」とか書いていましたが、橋本先生は操体を学ぶ人達によく「のる」か「そるか」という言葉の表現を用いていたという。
辞書を引いてみると、成否は天にまかせ、思い切って物事を行うこと。とか、いちかばちかという意味だと出ているが、辞書の意味とはちょっと違うような気がする。
成否は天にまかせてというのではなく、成否はもう天によって決まっており、天によって決められていることに「のる」ということではないかと思います。
人生読本「人間の設計」というNHKラジオ放送、一日目の最後に橋本先生は「気持ちのいいことすればいいってこと。これは極楽にいることでしょう。そういうふうにできてるってことが救いなんだもの。それを意識的に感ずれば感謝ができるですよ。それをみんなが気がつかずにいるだけの話でね。そんなに有難くできてるなってことが判ればいいだけのことです。だけども建て前として、いろんなことやると、間違ったことやれば、やっただけのことはどうしても返ってくるから、法則違反をすればそれだけの罰があるでしょう。だけど、天地自然はね、罰をあててるとは思っていないのよ、ちゃんとみんなに楽しんでもらってね、それで一生気持ちよく生きてくれればいいと思っているのは親心、だから神様が親ですよね、その気持ちがわかればいいと思うんだ。」と言っています。
こういうことに「のる」ということではないでしょうか。
例えば、重力というのがありますが、これはどうして重力が起きるのかとか、どうして重力があるのかという次元の問題ではなく、これはもともと自然界にある法則であり、宇宙の決まりごとであり、その決まりごとを誰が創ったかといったら、親の親である神様であり、親の親である神様は「ちゃんとみんなで愉楽しんでもらってね、それで一生気持ちよく生きてくれればいい」という親心から創ったものであり、重力の場で生きる人間にも、身体運動の法則としての決まりごととして、ここでも「ちゃんとみんなで愉楽しんでもらってね、それで一生気持ちよく生きてくれればいい」という親心が貫通しており、だから親心に素直になり、その決まりごとに適うように、「嘘か本当かやってみる」そしてそれが適っていれば、神様も喜び、気持ちがいいし、そのように神も人も気持ちよさでヒビキ合っている、そういうふうに有難くできているということに「のる」ということではないでしょうか。
だけども建て前(イノチの本音と違うアタマの部分)で、親の親の存在を無視し、オレがオレがと「そる」ことをしてしまえば、法則違反をした分だけ罰、報いがあるということなのでしょう。
親の親の存在を無視し、建て前の部分だけを満足させようとすると「楽」ということにつながるのかもしれません。
楽というのは、親心とは別のところで、人間の建て前がつくりだしたものですから、法則違反も含んでいます。
だから楽というのを前面に出したオレがオレがと「そる」建て前の主張というのは、それを主張する人にも罰があるんでしょうが、その主張に同調した人にも迷惑をかけてしまうということにもなるのではないでしょうか。
極楽の中にいるのに自ら地獄のふたを拡げることをしてしまっているのかもしれませんね。
橋本先生は、「のる」か「そるか」の意味を尋ねられると「天国か地獄かということだよ」と話されていたといいます。
よくよく突き詰めていけば真に気持ちよさが天国で、楽は地獄ということなのでしょうね。
操体法に於ける、操法として、とおすか、とおさないかの選択も、親心が貫通しているからだが要求し選択してくる気持ちのよさをききわけて、その気持ちの良さに従うということが大切というのも、こういうことも含んでのことだと思います。
罰という言葉が出てきていますが、よくよくこの橋本先生の語られたものを起こした文章を読んでいると、罰というのも人間がつくりだした現象界における報いの想念であり、親の親である神様にはそういう言葉すらないのかもしれません。ただただ「ちゃんとみんなで愉楽しんでもらってね、それで一生気持ちよく生きてくれればいい」という救いの親心だけしかないのだと思えます。
親心(宇宙現象創性の中心理念)に適うようにと、やってみて、それが親心に適っていれば、親の親も自分も気持ちがいいのだと思います。
そしてそのような決まりごとに、「のる」ということ。
いつもノリノリでいきましょう。
8月28、29日は大徳寺玉林院にて「東京操体フォーラム in 京都」開催
9月18、19日スペイン、マドリードにて「操体フォーラム in マドリード」開催