東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

男も女も・・人間は物ではない。(2)

真のエクスタシーとはどんなものなのでしょうか。
性行為による肉体的なものからくる、エクスタシーは男と女で違うでしょうが、精神的なものからくるエクスタシーは、人間として共通したものがあるのではないでしょうか。
橋本敬三先生はNHKラジオ放送に出演した時に、『「想う」ってのは、気持ちのいいことを想えばいい。厭なことは想いたくないですよ。だから一番気持ちのいいことを考えればいいんで、一番気持ちのいいことは、やっぱり有り難いって思ったときじゃないですか。有り難いってことがわかんない人は、いつでも不平不満でいるから気持ちがわるいですよ。』と言っています。
精神性を高め、真のエクスタシーを感じるには、肉体をお借りし「生かされて生きている」という事を自覚し、「有り難い」と思う心をどれだけ育てていけるかという自己生成、自己発展に関係してくるのではないでしょうか。


動画です。

この歌の歌詞はとても抽象的であり、和訳する人によっては随分と違ってきますが、私はこの和訳が好きです。特に2分40秒頃からはじまる、2番目の歌詞は「夢の王国」を「太極の意志」や「大生命の理」とし、「つらぬく光」を「救い」とすれば操体の臨床に重なる気がして、歌詞を見ながら歌のヒビキを感じていると、なぜか涙が溢れてきます。この涙は悲しくて溢れているのではありません。これは共感、共振による歓喜の涙であり、これもエクスタシーだと思います。しかし、その下地がなければ共感、共振もないでしょうし、感動も少ないと思います。操体の臨床の中で、共に快を味わい法悦にひたり、自然と両手を合わせたくなってしまう。そして「ありがとうございます」という言葉のヒビキと共に呼吸を両手の親指にとおしながら天にこうべを垂れる。そんな感動の下地があるからエクスタシーに通じるのだと思います。
この下地づくりというのは自己生成であり、操体の臨床の場だけに限らず、他の仕事でも、また家庭を支える主婦(夫)業の中でも、生きて活動する中にエクスタシーの下地は存在しており、ほんの些細な出来事でも有り難いと感謝し、そしてそれを言葉にしていくこと。そういった小さな積み重ねが、感動できる自分を生成していくことなのだと思います。
まずは与える、有り難いと感謝して自分自身に気持ちのよさがとおる言葉を与える。それが豊かな自己生成、そして自己発展につながるのではないでしょうか。そしてそれが「大生命の理」の中で生かされて、「自由」に生きていくということにつながると思います。

「生命の暗号」(村上和雄氏著)という本によれば、人間は1キロあたり1兆として、60キロの人なら60兆という数の細胞から成り立っているという。その一つ一つの細胞の核には遺伝子があり、その中には30億の暗号文字で書かれた情報があるそうです。この遺伝子の良い情報をONにするのもOFFにするのも、また悪い情報をOFFにするのもONにするのも、自分自身の心の持ちようにあるようです。ですから元々「救い」が完成されているイノチであり、元々「自由」が与えられているのです。ですが「自由」には責任が伴います。「大生命の理」に順応すれば、「大安心」が得られるが、順応しなければ、消耗と消滅の不安から逃れることができない。こちらのほうは「報い」になってきます。
「気持ちよさ」「感動」「感謝」「発する言葉」というのが、こういう面から考えても重要だと思います。

頑張る必要はないのです。そのかわり、「気持ちよさ」「感動」「感謝」「ハッスル言葉」を通じ、行動に生命(イノチ)を吹き込むことの繰り返しだと思います。

東京操体フォーラム理事長でもあります三浦寛先生から、フォーラムの時にいただいた色紙の「言葉」も「感動」の下地となり、「感謝」しながら、今「気持ちよく」書かせていただいております。これらの循環が大切ですが、何かを創りだすとか、自己生成の場面では、やはり最初に正しい「言」ありなのでしょうね。




友松 誠。