東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

男も女も・・人間は物ではない。(1)


おはようございます。
東北地方からも、ようやく桜の便りが届くようになりました。
桜の花を愛で、少しでも心を癒していただければと思います。


橋本敬三先生は終戦後、ロシアで捕虜生活を送っていた時期があり、その時一番辛かったのが、唯物論をはじめとする当時の共産主義思想を強要されたことだったと聞きます。捕虜生活は肉体的にも過酷で辛かったと思いますが、それよりも人間の尊厳を踏みにじるような思想教育(はじめの共産主義思想とは違うスターリン主義)の徹底による、精神的苦痛のほうがはるかに辛かったのだと思います。
唯物論では、物質が本来的で根源的な存在であるとしたうえで、心や精神も物質(脳髄)の所産と考えるそうですが、そうであるならば人間も物体であり、男は凸の特徴の物体、女は凹の特徴の物体となってしまいます。SEXも凸と凹が合体して新たな物体を産生し、その快感は脳髄の所産とするならば、なんとも味気ない。極端なたとえかも知れませんが、これでは人間の尊厳につながってこない。

発展し続ける現代科学でも、この3次元空間に生かされて生きているかぎり、どうしても物理的には解明できないことというのはあると思います。いや、解明できないことの方が多いと感じます。特に身近で当たり前と思っていること程、実証が難しいと思います。例えば、宇宙の果てがどうなっているとか。時間はいつ始まっていつ終わるのかとか。物理的に証明できる人はこの世にはいないと思います。
ミクロの内の内を探る分野でも、最小単位は素粒子と言われていましたが、その内にはクォークレプトンがある事が解りました。そしてその内も研究がされていますが、もし本当の最小単位が解ったとしても、それがどのように生じたのかといったら、物を見るという見識からでは、それは解らないと思います。
現代科学の最高の指導原理といわれる 唯物弁証法でも、物質やその運動、質の転換の根源に(+)(−)があることまでは認めているが、そこから先、つまりなぜそうなのか、(+)(−)が何故あるのかとまでは至らない。物を根源的とするからそこから先には進めなくなってしまう。だから、この現象界の起源については、感ずいてはいるが頬被りするしかなくなってくるのだと思います。
 別にそれが悪いというのではありませんが、自分の目に見える物だけが真実とするような考え方ではなく、目に見えないものによって自分も生かされているという心の持ち方も必要だと思います。


再度「生体の歪みを正す」の26ページより引用しますが
異性が互いに接近し、語り合い、見つめ合い、触れ合っただけで充電する。
これをいかに清潔に優雅に高尚に行なうかは、その人の知彗による。
性の充電のないのは気枯れ(けがれ)となる。

別に肉体的(物的)関係だけが性の充電ではないのだと思います。この文章を読むと、むしろ精神的なものを高めていくことが性の充電につながる感じがます。快楽には精神的なものが重要で、肉体的快楽ばかり求めていると消耗につながるのだと思います。
 心も精神も物質(脳髄)の所産と考えてしまえば、目には見えないけれども確実に自在している大いなる存在もわからないし、自分がどうしてこの世に存在しているのかということもわからなくなってしまう。自分を生かしてくれている空気や水、光、大地さえも、単に生まれた時からある物だから、あるのが当然と思ってしまうのではないだろうか。
それでは肉体的快楽の尺度でしか、生きていけないということになってしまわないだろうか。それで真のエクスタシーを感じることが出来るようになってくるのだろうか。


つづく。




友松 誠。