「不快」につながるような「感覚」。
例えば、「痛み」なんかもそうですね。
なんでこんな「痛み」にとらわれなければいけないんだろう。
「痛み」なんか早くなくなってくれればいいのに。
以前はよく運動中にケガをして痛めることが多かったのですが、こんなふうにどこか「たにんごと」のように感じていた「自分」がいました。
臨床に携わるようになり、患者さんの「痛み」とは向き合っていても、いざ「自分」のこととなると、その「痛み」の背景にあることにはあまり意識が向いていなかったというのが正直なところです。
「痛み」さえとれればいい、それは当時の臨床観にも通じていました。
それが「操体」を学ぶようになると、不思議なもので、どこか「たにんごと」だった「痛み」が、「じぶんごと」として感じられるようになってきたんです。
「自分」の観点でしか物事を捉えられていなかったときは「たにんごと」だったのに、「からだ」の観点で捉えられるようになってくると「じぶんごと」になってくる。
「からだごと」があっての「じぶんごと」、それは、自分勝手の「自分ごと」とはまるで違うこと。
「痛み」という「感覚」に限らず、「からだ」から「じぶん」というメッセージの「ながれ」を素直に受け取れるようになっていけば、想念の在り方もおのずと変化してくる。
そのメッセージの背景にあることに意識が向いてくれば、「からだ」、そして、「じぶん」を生かしてくれている法則性に気づいて、「こころ」も安定してくるのではないかと感じています。