「胡散臭い」というのは、面白い胡散臭さとつまらない胡散臭さがある。
- 作者: 小池龍之介
- 出版社/メーカー: サンガ
- 発売日: 2008/09/01
- メディア: 単行本
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小池龍之介氏の「偽善入門」。何故人間は「偽善くさい」のをいやがるのか?結論としては、口先だけでも「キレイなことを言っていたほうがいい」ということらしい。例えば会社のモットーが「清く正しく美しく」というのと「もうけ第一主義、キタナいことでもどんどんやれ」というのでは、やはりモチベーションに差が出てくるということ。ウソっぽくても後者より前者のほうが、気分的にはいい。
いつも思う事がある。正論をさも「正論」というと、ウソ臭くなるのは何故だろう。
その昔太極拳を習っていた会の会長は在家の坊さんだった。私が太極拳を習っていた先生は、太極拳の日本チャンピオンで、O先生(多分今でも茨城で活躍されれていると思う)という素敵な女性だった。この会長の在家の坊さんは、私が操体を勉強すると言った時
「操体は難しいから女には無理だ」とか
「所詮女は温泉かホテルでマッサージするのが関の山だ」と言ったヒトである。
少なからず「操体は難しいから女には無理だ」というハードルは越えたと思っているが、その人は「自分は秩父の山で座禅して悟った」と言っているのである。悟った人間がそういう事を言うかどうかは謎だが(すっごい謎)、女性は不浄のものであるからという理由で長らく禅寺は女人禁制になっていたりしたので、男尊女卑っぽいのはわからないでもない。
また、このオヤジは「悟った」と言っていた割には人の話を聞かず(爆)、何か用事があって電話をした際、こちらが用事があるにもかかわらず、一時間位ずっと喋っていたことがある。これには参ったが、散々喋った挙げ句「操体は難しいから女には無理だ」と言われたので、本当にトホホである。それも15秒で済ませようと思い、人から借りた電話だったので、電話を借りた人にも申し訳ないことしきりであった。
こういう人が「明るく大らかに生きましょう」という看板を掲げているわけだが、私にしてみれば「明るく大らかに生きましょう」という人程そうではないような気がする。というか、正論をさも正論で言われると、何だか本当に怪しい。
不思議なのは、同じことを言っても、なるほど、と思える人と、何だかうさんくさい人がいるのは何故だろう。これは本当に不思議だ。
私の体験で一番不気味だったのは、江戸川区で区民向けにセミナーをやった時の事だ。ある女性が私のところにやってきて、満面の張り付くような笑みを浮かべながら「操体って素晴らしいですよね」と言った。何だか気持ち悪かった。その人とは街中のスーパーマーケットでも偶然会ったが、その時も張り付くような笑みを浮かべて「操体って素晴らしいですよね」と言った。何故だかわからないが、果てしない気持ち悪さを感じた。
橋本先生は「オレが真面目だったらこんなこと(操体)やってねぇ」と言われたそうだが、正論をさも「私は道徳に沿ってますよ」という人よりも橋本先生のほうが魅力的だ。
橋本先生がタバコを吸われていたということに対して、以前嫌煙家の岡山の操体指導者が「あれは吸わない人にも吸う人にも気を遣っていて、本当は吸っていなかった。ふかしていただけだ」と言っていた。その時、その人は同席していた人の喫煙をなじったのだが、なじられた人が『橋本先生もタバコは吸われていましたよね』という言葉に対しての反論だった。このねじまげブリには恐れ入るが、こういうのが胡散臭いとか気持ち悪いのだ。
彼は、嫌煙主義者なので、橋本敬三先生がタバコを吸われていたという事実を隠しておきたいのである。こういう都合のいい事実歪曲が行われているわけだが、多分こういう輩は「救いと報いの違いを知ってから道楽や女郎買いをするようになった」という橋本先生の言葉に対して「いや、遊郭に行っても登楼(あがった)だけで、何もしてない」と言うのだろう。
言葉には「快の波動」がある。
「ありがとうございます」というのは一番波動が強いと思うのだが、最近、「ありがとうございます」という言葉を聞くと、その中でも「マトモ」なのと「なんだかうさんくさい」というのがあるのだと分かった。まあ、ネガティブワードを怒涛のように聞かされるのはいやなので、こちらのほうがまだマトモなのだろうか。
何故ポジティブ・ワードを発してもうさんくさい人とそうでない人がいるのかは研究中であるが、それは明らかに「原始感覚」(快か不快かをききわけるちから)だと思う。
原始感覚を磨く、原始感覚を呼び覚ます。アセンションが来るとともに、私達は原始感覚を磨く必要があるのだ。原始感覚が鈍っていると「快不快」の区別がつかなくなるのだから。