東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

快の表現

勤労感謝の日。日に日に冬に近づいているが、それもまたいい感じ。
11月第3木曜は、ぶどうの収穫を祝う日。今年は例年よりも一ヶ月ぶどうの収穫が早く、その分仕込みに時間をかけたとか。

何年も前、もう時効になっているからいいと思うが、私はある受講生の女性に難癖をつけられた。講習で彼女と組んだ時「あんたのはちっともきもちよくないわ!」と言われたのである。要は彼女にとっての最高の罵倒の言葉だったのである。非常に「女性的」な反応である。
一方私は「なにをとんちんかんな事を言ってるんだろう」と逆に可笑しくなってしまった。講習の場で「きもちいい・きもちよくない」という評価をするのがどれだけ的外れなのか分かっていないのだ。

臨床の場では、クライアントに対して「きもちいいかどうか(快適感覚の有無)」という問いかけは当然のことである。私達は診断をしているからだ。

一方講習の場では「きもちよかった」という感想ではなく、「介助がしっかり決まっていた」とか「フィット感がよかった」というようなアドバイスを互いにすべきなのだ。ここでは、診断方法の勉強をしているのだ。

この人は「きもちいいかよくないか」というのを指針にしていた。つまり「きもちいい=良い」「きもちわるい=悪い」という、短絡的な思考だ。「きもちよさ」は感覚であるから、その人が好きであるとか尊敬しているであろう操体指導者の介助補助を受けても「ききわけられないこともある」。

ある一時期、講習中に「今のは気持ちよかった」という評価が流行った時があった。これは注意しても直しても年が変わると必ず派生する。これは、操体の勉強に来ているんだか臨床を受けに来ているんだかわからない。

ヘタすると、フォーラムの実行委員でも使っている事がある。流石に実行委員は使わないだろうと思っているので、注意はしないが。実行委員勉強会とか、お互いに分かっている間柄ならいいのだが、初学者と一緒に学ぶ時などは、気をつけるのは先輩として当然の心配りだと思う。

また、ある人は「私はこう動きたい」とか「私はこのほうがもっときもちいい」と、練習中に相手に訴えていた。
操者は「ある動きを示し、やっていただき、その中で快不快の有無をききわける」のだが、これでは「からだの要求に委ねる」どころか「エゴが自分の要求を示している」ようである。
こういう場合すぐわかるのは、操者が「足底を押し込んで下さい」と言っているのに上半身を動かすとか、操者の指示とは違う動きをするのですぐわかる。これが、操体ははじめてとか、何かパフォーマンス系の事、あるいは特定のスポーツをしているのなら、起こりうることだが、いずれにせよ最初の「動診(診断)」は、まず操者の指示に沿って表現していただくのがベストだと思われる。

一方やっかいなのは、操体を勉強している、やっているにも関わらず「エゴ」で表現したがる場合は要注意だこれ「動診(診断)」と「操法(治療)」の区別がついていない典型例である。もっと下世話な言い方をすれば、「ああしろこうしろ」「他人の手を借りてマスターベーションをしているような感じでもある。え?言い過ぎだって?でも、操体を勉強している人間がそんなことをやるっていうのは、それだけみっともないということなのだ。素人だったら仕方ないけど。
「快」の受け止め方を取り違えてしまうとこうなってしまうのだろう。自分が「快」を知っているので「もっともっと」と、欲脳が立ち上がるのだ。

これも時効だからいいと思うが、ある人がモデルとして操体を受けていて、きもちのよさに委ね、恍惚の表情を浮かべていた。それはそれでいいのだが、ちょっとばかり問題があった。
動き方といい、表情といい、誇張ではなくもろに「性的な恍惚の表情」だったのである。鼻の下が伸びて、オランウータンみたいに見えた。それを人様の前で公開してしまうというのはすごいなと思った(本当にすごいことなのかもしれない)。その後、同席していた人に聞いてみたところ「私もあれには驚きました。ちょっと目のやり場に困りましたね〜。」とのことだった。「目のやり場に困った」と思ったのは私だけじゃなかったのだ。

からだが素直なのかもしれないが、人が見ると少し恥ずかしくなるくらいの「快」を味わえるのは逆に何だかすごいと思った。というか、操者に委ねきっているという状態だったのだ。う〜む(笑)

いずれにせよ、勤労感謝の日に仕事をしている同志(私も含めて)ご苦労様です!