「快は、探すものではなく出会うものである」ある時こんな言葉がアタマに浮かんできた。または「快は探すものではなく、そこにあるものである」かもしれない。後者は何だか「青い鳥」みたいだが、どこだろう、どこにあるんだろうと色々探してみても見つかるものではない。これが、面白い事に「楽なところ」「痛くないところ」は、探すと見つかるのである。
「楽」と「快」の違いは、ここにもあった。
「きもちよさ」は探しても見つからない
「楽(なところ)」は探すと見つかる「楽」は比較対照できる(相対的)だが、
「快」は絶対的である。つまり比較するものではない。
未だに「どちらがきもちいいですか」という問いかけをしている人がいる。長年操体をやっている人の中にもいる。きもちいいですか、ではなく「どちらが心地いいですか」と聞いている人もいるが、同じ事だ。
どちらがきもちいいかと聞かれると、大抵の被験者は「?」という顔になる。ちょこちょこう動いてみても、きもちよさは見つからないからだ。そうすると、今までの人生経験とか運動経験をもとに、くねくね動いたりするので、操者は「きもちよさを探して」という表現に移行する場合が多い。
私は全国大会で、あるベテランの先生が「きもちよさを探して」という誘導をした時はさすがに驚いた。30年以上のキャリアを持つ先生だが、楽と気持ちよさの違いが分かっていないのだ。師匠が「探す、じゃないでしょう」と言ったところ、他のベテランの先生が立ち上がり「探すでもなんでもいいじゃないか!」と怒鳴った。これは「楽と快は違う」と明言された橋本敬三先生の意志に従っていないんじゃないかと思った。
知らないこと、よく分からないこと、間違っていることを指摘されると怒る人がいる(または見ないフリをする)が、多分間違いを指摘されたから怒鳴ったのだろう。というのは、「きもちよさを探して」と言った先生と、怒鳴った先生は仲良しだからである。2人とも同じ事をやっている可能性は高い。
ベテランと言えば、あるベテラン(師匠の昔の受講生)の先生が、現在教えている操体のテキストを送ってくれた。手紙や電話では「私の講習は60時間やっている」とあった。私も以前プロ向けの個人レッスン(60時間)をやっていた。私がそれをやっていたのは10年前までで、それ以降は「快適感覚をききわける」という指導にシフトした。これは60時間程度では伝授できないと思ったので、プロ向けの個人レッスンを一時やめた。
そのテキストを見てびっくりしたのは、私が10数年前に教えていた内容と全く同じだったのである。つまり私が小林完治先生から習った、故滝津弥一郎氏と根本良一氏の連動操体の流れを汲むものだ。ページをめくると「楽な方に、きもちよく」と書かれていた。やってみるとわかるのだが、楽な方がきもちいいとは限らない。可動範囲が狭くてもきもちよさがある場合もあるのだ。
★これは、最近分かってきたのだが私達のように、第2分析、第3分析できもちよさがからだに通るようになっていると、第1分析をやっても「快」を享受できる。これは間違いない。しかし、それに不慣れなビギナーに「楽な方にきもちよく」と言うと「快と楽」の違いがますますわからなくなる。つまり「楽な方にきもちよく」という指導法は、ビギナーに対して不親切だということがわかる。
私がこのやり方をやめた理由は幾つかあるが、一番のきっかけは「楽でスムースな動きが果たして快なのか」という疑問からだった。そうすると、何でもかんでも比較対照して、楽でスムースな方に動かして脱力させるというのが何だか虚しくなってくるのである。
あるクライアントに第2分析の動診を行った時「これが、きもちよさっていうことなんですね」と涙を流した女性がいた。彼女自身「どちらがきもちいいですか」という呪縛にとらえられていて、自分で操体を試しても「どちらがきもちいいのかわからない」ということに悩んでいたのだ。
この時、私は彼女と「快」の共有体験を持った。快の共有の有無は操者にとっても非常に大きなインパクトがある。
確かに痛みを瞬時に取り去るとか、圧痛硬結を瞬時に解消するには効果があったのだが、私は「痛み取り屋」よりも「快の共有者」になることを選んだのである。
某先生は「きもちいい」というと『何だかアレだから、私はここちよさ、と言っている」とのことだった。このほうが余程いやらしいと思うのだが。要は「きもちいい」という言葉から、性的なものを連想しているわけだ。
「きもちよさを探してぇ」という操体の指導をしている人は、本当は「楽(なところ)」を探してぇ」と言っているのだ。探し当てるのは当然「楽なところ」なのだが被験者は「きもちいいわけじゃないよなぁ」と感じ、「操体ってきもちいいっていうけど、よくわかんないや」ということになる。
この「操体ってよくわかんないや」というのをどうにかするカギが「楽と快の違いを伝える」ということだ。