おはようございます.
昨日は志村ふくみさんのエッセイを紹介させていただきました。
私は、一つ一つのまたは一人一人の個の神性を重んじ、ごちゃ混ぜにしては、いけないということを強く感じました。そして、相関相補連動する自然の法則性に逆らうことなく、調和をつくり出していく。
操体臨床においての診断法にも、つうじるものがあると思います。
からだの動き(関節の動き)を基本的に分類すると8つになります。
手関節の場合を例にとると、背屈、掌屈、外旋、内旋、橈屈、尺屈、牽引、圧迫。
足関節の場合を例にとると、背屈、底屈、外反、内反、外転、内転、牽引、圧迫。
というように8つとなります。そして局所が動けば中枢神経を介して全身形態が合目的に連動して動きます。これは元来、本能として備わっている機能であり、手関節→からだの中心腰・骨盤→全身という動きの流れとなります。この動きの流れで表現される全身形態の動きも、基本的に8つとなり、この8つの動きというのは極限安定、オクタントとなります。つまり元々は全体が調和して協調的に動くという機能が備わっています。
それを生かすには一定のルールと約束事が自在するのです。一定のルール、約束事、つまり自然法則を知り、応用して行く必要があるのです。元々、生かされてよりよく生きる為の機能も、その使い方、動かし方の法則に合わせなければ、機能を十分に発揮できないばかりか、健康傾斜の歪体化を招き、時間、空間のかかわりあいに於いて、エントロピー増大に向かい、破壊、破滅を招くことになってしまうのです。ですから、まずはからだの使い方、動かし方の自然法則を知り、一つひとつの動きの自然な連動性の中で、感覚をききわけることが必要になってきます。100点満点の健康度の人間などは、まず居ないと思います。生活の中で誰でも大なり小なり、からだに歪みを生じさせています。その歪体度によっては自然法則に則り、からだを動かしているつもりでも、痛みや不快感が伴うことがあります。そのような時はすぐに中止すること(思い込みは禁物であり、あくまで感覚のききわけを優先すること)。逆に快適感覚がききわけられたならば、十分に味わうこと。
極限安定の8つの動き、一つひとつは、元々からだ全体が調和する動きです。そして、からだも元々、快により調和が成された神聖な協同体です。ですから、ゴチャ混ぜにすることなく、一つひとつの動きに対して、自然法則を基に快をききわけ、味わえば、からだは調和に向かうのです。そして、その快の質によっては、一つの動きでも全体の調和が成される。その上でバランスも整い、歪みも整復され、不快感を生じた動きもスムーズにとおせるようになってくるのです。これは動きが単にスムーズになるだけに留まらず、症状疾患の改善にもつながるのです。
ちょっと話は逸れますが、昨日なにげなくテレビを見ていたら、歌舞伎役者の坂東玉三郎さんが「型破り」と「型無し」は違うという話をされていました。自然法則に則り、からだを動かし、気持ちよさをききわけ、その気持ちよさに委ねていると、からだの無意識が発動して、調和に向かう「型破り」な動きとなります。しかし、自然法則の理解とそこまでの手順を省略して「気持ちよく動いてください」と言っても、言われた方は意味不明であり、これでは「形無し」となってしまいます。また、自然法則に則り、からだを動かしていても「気持ちよさを探して動いてください」という言葉を掛けてしまうと、からだを動かして感覚をききわけるという意識よりも、自我の方が上回ってしまい、かえって、からだの要求を無視した不調和を生じさせる動きとなり、これも「形無し」となってしまいます。
一つひとつの動きを個々単独に独立させて快適感覚の有無をききわけさせる。これを一極微といいます。一極微の問いかけは、手関節から、あるいは足関節という末端から問いかけることにより、右手、左手、右足、左足、各8つとして32通りとなり、他に両手、両足を使う、首を使うというようにすれば更に問いかけ方は増えます。さらに立位、腰掛位、正座位、仰臥位、横臥位、伏臥位、といったポジションの違いでも連動性は違ってきますから、それだけ快に対する問いかけ方も幅広くなります。そして、より連動性を引き出し、よりよく快のききわけを成す為の介助、言葉かけ、意識、イメージの持たせ方、呼吸のとおし方、などを含めていくと、快適感覚に対する問いかけは、操者の調和への創造力により、無限にひろがることになります。しかし、ただ単に快適感覚への問いかけ方を多く覚えれば良いというものではなく、その一つひとつの中身、本質への問いかけが重要です。
操体法の、法は方法論ではなく、イノチの創造主である太極のおしえ、です。だから、一つひとつのことを、おしえどおりに行っているのか、常に観られているような気がします。
一極微についてもう一つ説明を加えると、「一極微とは、一にして二、二にして一の太極的な調和を意味する言葉として創り出された。一極微の分析においては、快適感覚のききわけがなされれば、即、操法に入れる」 (三浦寛先生著、操体臨床への道しるべより)
友松 誠。